『小倉百人一首』
あらかるた
【289】しおどきの歌
潮時を待つ
額田王(ぬかたのおおきみ)が斉明(さいめい)天皇の
温泉旅行に随行して詠んだとされる、
このような歌があります。
熟田津に舟乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
(万葉集巻第一 8 額田王)
熟田津(にきたつ)で舟に乗ろうと月を待っていたら
潮の具合がよくなってきた さあ今こそ漕ぎ出しましょう
『万葉集』左注に「伊予の湯の宮」とあるので、
場所は道後温泉の離宮もしくは行宮(あんぐう)であり、
最寄りの船着場が熟田津だったようです。
四句の「潮もかなひぬ」は潮時(しおどき)になったということ。
船出にちょうどよい潮位になったのです。
潮時は誤用の多い言葉としてよく採り上げられますが
もともとは潮の満ち干の時間のことでした。
それがのちに何かをするのに最適な頃合いを指すようになったのです。
嗚呼見の浦に舟乗りすらむ をとめらが珠裳の裾に潮満つらむか
(万葉集巻一 40 柿本人麻呂)
あみの浦で船に乗りこんでいるころだろう
おとめたちのきれいな裳(も=奈良時代の衣服)の裾には
潮が満ちているだろうか
こちらは持統天皇(二)の伊勢行幸に際して詠まれたもの。
人麻呂(三)はなぜか随行しておらず、
船出のようすを想像で詠んでいます。
潮時を厭う
『万葉集』の二首は潮時すなわち好機でしたが、
百人一首には潮時を待っていなかったであろう人物が…。
わたの原八十島かけて漕ぎ出ぬと 人には告げよあまの釣舟
(十一 参議篁)
はるかな海原を 島々めざして漕ぎ出していったと
都の人たちに伝えておくれ 海人の釣舟よ
小野篁(おののたかむら)は遣唐使船への乗船を拒み、
さらに遣唐使を風刺する詩を作ったため、
嵯峨上皇によって隠岐への流罪(るざい)に処されました。
冬のさなかに難波から乗船したのですが、そのとき
都にいる人に届けてもらおうと詠んだのが上記の歌です。
いつ帰れるという保証のない船出ですから、
潮時になるのがさぞ恨めしかったことでしょう。
篁は反骨の士として知られており、
遣唐使船への乗船拒否は
遣唐大使の専横に抗議するためだったといわれます。
篁は二年もしないうちに都に召喚され、順調に昇進して参議となり、
弾正大弼(だんじょうのだいひつ=警察機関の次官)を兼任。
いっぽうで天下無双と讃えられた博識と詩歌の才によって
後世にまで大きな影響を及ぼしました。
遠島に置いておくわけにいかないほどの逸材であり、
朝廷としても呼び戻す潮時を待っていたのかもしれませんね。
※バックナンバー【47】【246】参照。