『小倉百人一首』
あらかるた
【291】清少納言と庚申の夜
楽しい夜明かし
都市部ではほとんど見かけませんが、
道端に石の庚申塔(こうしんとう)が立っていたり、
庚申堂(こうしんどう)と呼ばれる集会所が残る集落は
ほぼ日本中にあるようです。
庚申信仰は室町時代くらいに仏教と結びつき、
さらに神道と習合して姿を変えました。
しかしもともとは中国から伝来した道教の信仰です。
庚申(かのえさる)の日に
体内に棲んでいる三尸(さんし)の虫が天に昇り、
寿命の神に人の過ちを報告して寿命を縮めさせてしまう。
だから虫を昇天させないよう徹夜をし、
その日だけでもつつましく過ごして長生きをしようというのです。
これが日本に伝わったのは八世紀後半とされ、
当初は貴族の間だけで行われていました。
藤原頼通(ふじわらのよりみち)は老子の像を掲げて
静かに道教の書物を読んだりしていたそうですが、それは例外。
同僚や部下たちを集めて酒や料理をふるまい、
詩を作り、歌を詠み、音楽を奏で、碁を打ち、
飲めや歌えの饗宴が繰り広げられるのがふつうでした。
徹夜のための眠気ざましという範囲を超えています。
いとゞしくいも寝ざるらむと思ふかな けふの今宵にあへるたなばた
(拾遺和歌集 秋 清原元輔)
そうでなくても寝られない七夕の夜に庚申の夜が重なって
あなた(=織姫)はますます寝ずにいるのだろうと思っていますよ
清原元輔(きよはらのもとすけ 四十二)の歌は
七月七日が庚申だったときに詠んだもの。
牽牛の来訪を待って寝られない夜に、
徹夜しなければならない庚申が重なったというのです。
元輔も夜が明けるまで歌会をしていたのでしょう。
清少納言そらとぼけの理由
元輔の娘清少納言(六十二)が
『枕草子』に庚申の日のできごとを記しています。
歌会を思い立った内大臣藤原伊周(ふじわらのこれちか)が
女房たちにも歌の題を出していたのですが、
清少納言は話題をそらして知らぬふり。
歌会が始まっても参加を拒みつづけるので、
伊周はこんな歌を書いて投げてよこしました。
元輔がのちといはるゝ君しもや 今宵の歌にはづれてはをる
(枕草子 九十九段)
あの元輔の子と普段からいわれているほかでもないあなたが
今夜の歌会の席から外れているとはねぇ
これを見た清少納言は大笑い。
何がおかしいのかといぶかる伊周に
その人の後といはれぬ身なりせば 今宵の歌をまづぞよままし
(同上)
その人(=元輔)の子といわれない身でしたら
今夜の歌を真っ先に詠みたいと思いますわ
『枕草子』には
名歌人の子という重圧がなかったなら、
千首の歌でもすらすら出てくるでしょうと答えたと書いてあります。
清少納言にとって父親の名声は
必ずしもありがたいものではなかったようです。
歌は詠みたくないけれど、
庚申の夜だから起きていなければいけない。
所在なげな清少納言の姿が想像できますね。