読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【292】親の七光を超えて


関白殿下のお誘い

紫式部(五十七)の一人娘大弐三位(だいにのさんみ 五十八)は
摂関家の貴公子たちに次々と求愛されたことで知られています。
二世タレントに人気があるのは今も同じですが、
大弐三位は高身分、高収入、高教養の男ばかりにモテていたようです。

『新勅撰和歌集』には関白藤原頼通(よりみち)との
こんなやりとりが載っています。

《詞書》
高陽院の梅花をゝりてつかはして侍りければ

いとゞしく春のこゝろのそらなるに また花のかを身にぞしめつる
(新勅撰和歌集 春 大弐三位)

そうでなくても春の心はうわの空になるものですのに
その上さらにいただいた梅の花の香に身を浸しました
(いっそううわの空になってしまいましたわ)

返し

そらならばたづねきなまし 梅の花まだ身にしまぬにほひとぞみる
(新勅撰和歌集 春 宇治前関白太政大臣)

うわの空なら訪ねて来ればいいじゃありませんか
梅の花の香がまだちゃんと身に染みていないようですから

高陽院(かやのいん)は頼通の邸宅です。
その邸宅の梅の枝を贈られた大弐三位は
うわの空がさらにうわの空になったとはしゃいでみせ、
頼通はそら(=うそ/不確実)なら訪ねて来て
花の香をたっぷり楽しみなさいよとユーモラスに応えています。

恋人だったかどうかは不明ですが、
仲がよかったのはまちがいありませんね。


夜通しの歌合

永承五年(1050年)六月、
頼通は後朱雀(ごすざく)天皇の皇女
祐子(ゆうし)内親王のために高陽院で歌合を催しました。

一般に「祐子内親王家歌合」と呼ばれていますが、
内親王の後見(うしろみ/こうけん)を務めていた
頼通が自邸を提供し、諸費用も援助していたようです。

歌合の記録には関白殿下(頼通)が
男女各六人に題を賜い歌を献じさせたとあります。
大弐三位は伊勢大輔(六十一)、相模(六十五)、
能因(六十九)らとともに選ばれ、
二勝一敗の成績をおさめています。

「桜」の題で「勝」となったのはこの歌。

吹く風ぞ思へばつらき 桜花こゝろと散れる春しなければ
(祐子内親王家歌合 桜 典侍)

吹く風というものこそ 思えば薄情なものね
桜の花が自分から散ろうとする春なんてないのだから

歌人たちが献上した歌は「香壺筥」に入れられたとあるので、
香箱(こうばこ)のようなものに入れて香りをつけたのでしょう。
それを順に取り出しながら朗詠したと思われますが、
会場にも香が焚かれており、香気は戸外にも漂っていたといいます。

また当日は庚申(こうしん:前話参照)にあたり、
歌題に合わせた書画や金銀の調度、
人々の華やかな衣が照明に映えて美しかったとも。
夜が明けるまで和歌の饗宴はつづいたのです。

関白頼通のお眼鏡にかなう歌人だった大弐三位。
ただの二世ではないことが認められており、このような晴れ舞台でも
一流歌人たちと互角にわたり合っていたのですね。