読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【293】名もなきほととぎす


宮中の警固職だった忠岑

百人一首には何組もの親子歌人が選ばれていますが、
親子ともども経歴のよくわかっていないのが
壬生忠岑(みぶのただみね 三十)と忠見(ただみ 四十一)の父子。

忠岑は紀貫之(きのつらゆき 三十五)らとともに
『古今和歌集』の選者に任ぜられており、
醍醐天皇の時代の有力歌人でした。
にもかかわらず、生没年を含めてほとんど記録がありません。

貫之が『古今和歌集』序文に記した選者一覧によると、
天皇から歌集編纂の詔(みことのり)が発せられた
延喜五年(905年)の時点で、
忠岑は右衛門府生(うえもんふしょう)でした。

衛門府(えもんふ)は宮中の警固を行う役所のことで、
左右の二つ(左衛門府・右衛門府)に分かれていました。
府生(ふしょう)はその下級役人を指します。

かるたに描かれている忠岑は笏(しゃく)を持ち、
束帯(そくたい)らしき貴族男子の装束を着ています。
しかしかるたではない、歌仙絵(かせんえ)の一部には
軽装で弓箭(きゅうせん=弓矢)を身に着けたものがあり、
いかにも警固職らしい姿をしています。

最初にかるたに絵を入れた人物が
忠岑の身分を知らなかったのかもしれませんが、
現在のかるたも貴族の姿を踏襲したものになっています。


拒食症はフィクション

息子の忠見も情報がない点ではおなじ。

村上天皇に和歌の才能を認められて
御厨子所(みずしどころ=天皇の食事を調理する部署)に職を得た、
歌会に召されたとき、粗末な衣装を恥じて
暗くなってから参上した、などの話も
どこまでほんとうなのかわかっていません。

確実に作り話と思われているのは拒食症の一件です。
忠見は内裏の歌合で平兼盛(たいらのかねもり 四十)の歌に敗れ、
落胆のあまり食事も喉を通らなくなって、
ついには死んでしまったという話。

この話は鎌倉時代の仏教説話集
『沙石集(しゃせきしゅう)』に載っています。

仏教説話は民衆を信仰に導くために読み聞かせるものなので、
誇張されたフィクションが多くなりがちです。
忠見が長生きしたと書いてある書物もあるそうで、
説話の記事は現在だれも信じていないのが実情です。

最後に二人のほととぎすの歌を読んでみましょう。

暮るゝかとみればあけぬる夏の夜を あかずとやなく山郭公
(古今和歌集 春 壬生忠岑)

暮れたかと思えば明けてしまうほど短い夏の夜を
飽かず(=飽き足りない)といって鳴くのか 山のほととぎすよ

さ夜ふけて寝覚めざりせば 郭公ひとづてにこそきくべかりけれ
(拾遺和歌集 夏 壬生忠見)

夜が更けて目を覚まさなかったら
ほととぎすが鳴いたのも人づてに聞くだけだっただろうな

歌の才がなかったら、名もない官人として
忘れ去られていたであろう父と息子。
二羽のほととぎすはしかし、ともに三十六歌仙に選ばれ、
百人一首にも選ばれて、
千年に及ぶ時を経ても飽かずに愛され続けています。