『小倉百人一首』
あらかるた
【269】音を合図に
秋風という訪問者
好きな人の足音がわかる、
という人は少なくないでしょう。
郵便配達のバイクの音ならわかる、
という人もいるかもしれません。
音が訪問を知らせてくれるわけですが、じつは
音と訪問には昔から深い関係がありました。
「訪問する」という意味の古語に
「おとづる」や「おとなふ」があります。
どちらも「音をたてる」というのがもともとの意味で、
百人一首にその好例があります。
夕されば門田の稲葉おとづれて あしのまろやに秋風ぞ吹く
(七十一 大納言経信)
夕方になると門前の田の稲葉にさやさやと音をたて
葦(あし)を葺(ふ)いた粗末な小屋に秋風が吹くことだ
秋風が吹きつけて(=訪問して)いるのは丸屋(まろや)です。
その秋風が、まず稲葉を揺らして音をたてているのです。
この手順を当時の風習に照らして考えると、
秋風は訪問を知らせる合図として音をたてたのだと、
読み解くことができます。
呼び鈴がない時代なので何かの音で知らせたのですが、
稲葉を揺らすなどという風流な合図は、秋風でないとできません。
平安貴族の場合は一般的に門の前で、あるいは垣根越しに
しわぶき(=咳ばらい)をして合図にしていました。
咳ばらいだけでわかればすぐ扉を開けてもらえますが、
わからない場合は家の中からも咳ばらいが返ってきます。
『源氏物語』などには家の人が咳ばらいで応答したあと
「かれはたれぞ(そこにいるのはだれ)」と確認するようすが
描かれています。
手紙を「音」と呼ぶわけ
ところで「音信不通」とか「音沙汰がない」などと、
連絡がつかない状態をいうときにも「音」が出てきます。
電話ならともかく、手紙についても
「音」という言葉をつかうのはなぜなのでしょう。
日本人の付き合いのあり方をさかのぼっていくと、
手紙は訪問の代替えと考えられていたらしいのです。
音を合図に訪問するのが付き合いの基本だったため、
その代替えである手紙も「音」と呼ぶようになったと考えられます。
壬生忠岑(みぶのただみね 三十)に
このような歌があります。
みよしのゝ山の白雪ふみわけて 入りにし人のおとづれもせぬ
(古今和歌集 冬 壬生忠岑)
白雪を踏み分けて吉野山に入っていったあの人からは
その後なんの音沙汰もありません
修行のため吉野山に入った人が、
会いに来ないし手紙もよこさないというのです。
忠岑は怒っているのではありません。
俗世間から離れて修行に専念しているのだろうと思ったのです。
「便りのないのはよい便り」ということわざがありますが、
そんな心境だったのかもしれませんね。