読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【270】テーブルの上の自然


自然のミニチュア 洲浜

何人かが集まって歌を詠み交わすのを歌会(うたかい)といい、
これは『万葉集』にすでに見られます。

しかし詠まれた歌の優劣を競う歌合(うたあわせ)の記録はなく、
現存する最古の歌合は平安時代初期のものです。
主催者は在原業平(十七)の兄、行平(ゆきひら 十六)でした。

惜しいことにこの歌合の記録には、参加した歌人の名前も、
勝敗を判定した判者(はんじゃ)の名前も書かれていません。
対戦もわずか十二番を記すのみですが、
これですべてなのでしょうか、それとも断片なのでしょうか。

不明点が多いのですが、興味深いのは次の記述です。

左には山のかたを洲浜につくり
右には荒れたる宿のかたを洲浜につくりてありける

歌合は左右二組に分かれて対戦します。
左側には山の形に作った洲浜(すはま)が、
右側には荒れた家を作った洲浜が置いてあったのです。

洲浜は今ふうに言えばジオラマのようなもの。
結婚式などで飾られる島台(しまだい)に近いもので、
脚のついた台の上に海辺や山などの風景を作り、
樹木や建物、人や動物の作り物を配置してありました。

歌合などの物合(ものあわせ)の遊びには
かならず飾られたそうですが、
それが初期の段階から用いられていたのです。


贅を尽くしたジオラマ

永承五年(1050年)五月に
内裏で開催された根合(ねあわせ)の記録があります。
これは左右に分かれて菖蒲の根の長さを競う遊び。
根合につづいて歌合があり、さらに
管弦(かんげん=音楽)の遊びが行われました。

このときの洲浜には銀の松が植えてあり、
銀の川に銀の鶴亀、さらに香木で作った岩が配置してありました。
周囲は金銀の薬玉(くすだま)で飾られていたとも書かれています。

ほかに勝負の一番ごとに勝った側が串を刺していく
数差(かずさし)という得点板のようなものがありました。
最終的に串の数の多い側が勝になるのですが、
この数差も洲浜にして小松を植えてあり、
銀細工の菖蒲が串の代わりに用いられました。

短冊を載せておく文台(ぶんだい)には
舞い踊る童子の像が添えられていて、
これもまた銀で作られていました。

これらすべてがこの日のための特注品です。
行平の時代から二百年ほど経て、歌合は最盛期を迎えていました。
しかも主催者は天皇ですから、
このような絢爛豪華な装飾が調えられたのでしょう。

しかし歌合が王朝のはなやかな遊宴行事だったのはこのころまで。
歌合に文芸の場としての性格が強くなると、
左右のどちらが勝つかより個々の歌の良し悪し、
さらには評論や歌論に関心が移っていきました。
華麗さを演出してきた洲浜は、次第にその役目を終えていったのです。