『小倉百人一首』
あらかるた
【274】名勝負の真相
不安をもらす天皇
平兼盛(たいらのかねもり)と壬生忠見(みぶのただみ)の
有名な和歌対決があったのは天徳四年(960年)三月、
内裏の清涼殿で行われた歌合(うたあわせ)。
この歌合は《天徳内裏(てんとくだいり)歌合》とも呼ばれ、
詳細な記録が遺されていて参考にしやすかったためか、
のちのさまざまな歌合の規範となっています。
この記録が面白いのは、歌合の一部始終にとどまらず、
発案や企画段階の詳細まで書かれているところ。
そんな中で、主催者である村上天皇が
次のような気になる歌を詠んでいました。
ことのはをくらぶの山のおぼつかな 深き心の何れ優れる
言の葉(=和歌)を比べようと思うが
暗部山(くらぶやま=鞍馬山)の道が暗いように
(わたしは和歌の道に暗くて)よくわからない
歌の心の奥深さはどれが優れているのか(見極められようか)
これは宰相の更衣という女官に遣わしたもの。
天皇はまた、別の女官にこう詠みかけています。
吹く風によるべ定めぬ白浪は いづれのかたに心よせまし
風の吹きかた次第で打ち寄せる岸の変わる白波は
(=そのときの雰囲気次第で評価の一定しないわたしは)
どちら側をひいきにしたらよいのだろう
天皇は判者(はんじゃ=優劣を判定する審判)ではないのですが、
それにしても自信のなさそうな言葉です。
そしてその自信のない天皇が歌合の当日、
二人の歌人の命運を左右することに…。
推測で決まった勝敗
二十番に及ぶ歌合の最後に「恋」の題で相対した兼盛と忠見。
その歌はどちらも百人一首でおなじみです。
しのぶれど色にいでにけりわが恋は ものや思ふと人のとふまで
(四十 平兼盛)
人に知られぬようにしていたわたしの恋も顔に出てしまったか
悩みでもあるのかと人がたずねるほどに
恋すてふわが名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思ひそめしか
(四十一 壬生忠見)
早くもわたしが恋をしているとうわさになってしまった
ひそかに思いはじめていたというのに
判者は貞信公藤原忠平(ふじわらのただひら 二十六)の息子
実頼(さねより)でしたが、どちらも優れていると考え
一旦は持(ぢ=引き分け)と判定。
しかし天皇は納得しませんでした。
記録には「小臣頻候天気 未給勅判 令密詠右方哥」とあります。
わたしが天気(=天皇のようす)を窺ってみたところ、
(優劣の)判断は下されなかったが
右方の歌をひそかに口ずさんでいたというのです。
これが決め手となり、
実頼は右方の兼盛を勝ちと定めました。
天皇は兼盛の歌を気に入っているのだろうと推測したわけです。
引き分けなら不名誉ではないのですが、
これでは延長戦のあげくに負けてしまったようなもの。
忠見は落胆のあまり食欲もなくなり、
ついには死んでしまった…というのは後世の作り話ですが、
さぞ悔しかったことでしょう。