『小倉百人一首』
あらかるた
【275】人はいさ
とぼけた返事に「いさ」
人はいさ心もしらず ふるさとは花ぞ昔の香ににほひける
(三十五 紀貫之)
人の心は さあどうだか知りませんが
古都は梅の花が昔と変わらない香りを漂わせていますよ
貫之の歌にある「いさ」は「さあどうですかねぇ」などと、
話を軽く受け流すときに使う言葉です。
「いさ」には反論や否定の語調を弱めたり、
話の内容をぼかす効果があります。
在原業平(なりひら 十七)の孫、
元方(もとかた)はこんなふうに詠んでいます。
人はいさ我はなき名の惜しければ 昔も今も知らずとをいはむ
(古今和歌集 恋 在原元方)
さあねぇ あなたはどうなのか知らないけれど
わたしは根も葉もないうわさを立てられたくないから
昔も今も(二人は)無関係ですと言うことにするよ
相手の考えをさておいて自分の思いを述べています。
これが和歌によくある手法なのですが、
中には自分の思いをさておいた人もいます。
我はいさなれもしらじな春の雁 かへりあふべき秋のたのみは
(新拾遺和歌集 春 伏見院御製)
わたしはともかく おまえも知らないだろうな春の雁よ
秋にふたたび帰ってくるあてについては
わたしもそうかもしれないが、
北に帰る雁よ、おまえだって
次の秋にもどって来られるかどうかわからないだろうと。
そうかと思えば、
のちはいさ逢ひみぬさきのつらさこそ 思ひくらぶるかたなかりけれ
(新後撰和歌集 恋 信実朝臣)
後のことはともかく 逢う前のつらさといったら
比べて考えるものがないほどだったよ
逢った後の別れのことはさておき、
逢えない間のつらさはほかに比べるものがないと。
これらの歌を見ると、「いさ」は
視点や話題を変えることもできるようです。
答えにくいときも「いさ」
『後撰和歌集』にこのような歌が載っています。
詠んだのは百人一首歌人の伊勢(十九)。
世の中はいさともいさや 風の音は秋に秋そふこゝちこそすれ
(後撰和歌集 恋 伊勢)
二人の関係は そうねえ そうよねえ
風の音を聞くと秋に秋が添うような感じがするわねえ
季節は秋。伊勢が男と別れたらしいと聞いた知人が、
今は風の音を聞いただけでも悲しいのではないかと言ってきたのです。
この歌はそれに対する返答です。
「世の中」はここでは男女の間柄のこと。
「秋」は「飽き」を掛けており、恋が冷めたことを示しています。
めずらしい使いかたですが、
「いさともいさや」という繰り返しが
いかにも答えにくそうな感じをうまく表していますね。