『小倉百人一首』
あらかるた
【277】就活する凡河内躬恒
就職するにはコネとツテ
『後撰和歌集』に
凡河内躬恒(おおしこうちのみつね 二十九)の
こんな歌が載せられています。
《詞書》
もとよりともだちに侍りければ 貫之にあひかたらひて
兼輔朝臣の家に名づきをつたへさせ侍りけるに
その名づきにくはへて貫之にをくりける
人につくたよりだになし 大あらきのもりの下なる草の身なれば
(後撰和歌集 雑 凡河内躬恒)
《詞書》
昔からの友人でしたので 貫之(つらゆき 三十五)と相談して
兼輔氏の家に身上書を持って行ってもらったとき
その身上書に添えて貫之に届けた歌
人に仕えるためのコネさえないのです
大荒木の森の下草のような境遇のわたしですから
詞書にある「名づき」は名簿(みょうぶ)ともいい、
自分の名前や官位を記した書類のこと。
貴人に面会を乞うとき、弟子入りするとき、
就職するときなどに提出したものです。
「大荒木の森(おおあらきのもり)」は歌枕。
大殯(おおあらき)が語源ともいわれ、
「大荒木の森の下草」は
だれからも相手にされない境遇を指します。
この歌から、躬恒が
藤原兼輔(ふじわらのかねすけ 二十七)の家臣になるための
就職活動をしていたことがわかります。
兼輔と面識のあった貫之を伝手(つて)にしたのでしょう。
平安時代には地方の豪族が子弟を都に送り、
権門(けんもん=身分が高く権勢のある家)との
縁故関係を築くために、従者として就職させるようになっていました。
その際もまず名づきが提出され、
いきなり面接することはなかったそうです。
躬恒はそういう人たちとも就職先を競っていたのでしょう。
恩人に帰京の挨拶
躬恒が就職できたかどうかは定かではありませんが、
その後躬恒と貫之は兼輔の鴨川堤の邸宅にたびたび招かれ、
かれらを中心とする和歌サロンが形成されていきます。
醍醐天皇の命によって『古今和歌集』が編纂されたとき
躬恒、貫之らが撰者となった背景には、かれらと親しく、
天皇の側近でもあった兼輔の尽力があったと考えられています。
編纂終了後、躬恒は延喜二十一年(921年)から
淡路掾(あわじのじょう=淡路国司の判官)として都を離れ、
任果てて帰京するとすぐ、兼輔を訪問しています。
そのときの歌が、
ひき植ゑし人はむべこそ老いにけれ 松の小高くなりにけるかな
(後撰和歌集 雑 凡河内躬恒)
(かつて正月に)引いた小松を植えた人は なるほど老いたわけです
あのときの松がこんなに小高く育ったのですから
正月最初の子(ね)の日に野山で小松を引き抜く「小松引き」の行事。
その松を植えた自分が年をとったのも無理はないというのです。
久しぶりの再会を喜ぶ気持を、こんな形で表現したのですね。
躬恒が地方官の職を得られたのも
中納言兼輔の配慮だったかもしれず、
あるいはお礼の挨拶に行ったのかもしれません。