『小倉百人一首』
あらかるた
【279】梨壺の五人
悪評の五人
百人一首は『古今和歌集』以降の
十冊の勅撰和歌集から作品を選んでいます。
そのうち二番目にあたるのが『後撰和歌集』で、
編纂にあたった五人を「梨壺(なしつぼ)の五人」と呼びます。
編集室の前の中庭に梨の木が植えてあったためで、梨壺は俗称。
正式には昭陽舎(しょうようしゃ)といいます。
人数が五人なのは『古今和歌集』に倣ったものと考えられており、
そのメンバーは下記のとおりでした。
・源順(みなもとのしたごう)
・清原元輔(きよはらのもとすけ 四十二)
・大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ 四十九)
・紀時文(きのときふみ)
・坂上望城(さかのうえのもちき)
このうち元輔は深養父(ふかやぶ 三十六)の孫、
時文は貫之(つらゆき 三十五)の子、
望城は是則(これのり 三十一)の子。
大物歌人の二世、三世が選ばれています。
元輔はともかく、時文と望城は親の七光りだと
早くから指摘されており、そのせいで
梨壺の五人そのものの評価が低くなってしまっているようです。
推測ですが、
博学多識の順が編集長を務め、能書家だった時文は清書係、
御書所預(ごしょどころあずかり)だった望城は
所蔵図書の管理を担当したのではないかという説があります。
編纂時に別当(=長官)に任ぜられたのがインテリ歌人の
謙徳公藤原伊尹(ふじわらのこれただ 四十五)だったことも合わせ、
じつはよく考えられた人選だったのかもしれません。
歌人としてはイマイチ
勅撰集に採られた時文の歌は五首。
そのうちの一つが
秋ふかくなりゆく野辺の虫のねは 聞く人さへぞ露けかりける
(続後撰和歌集 秋 紀時文)
秋が深くなっていくころの野辺の虫の音は
聞いている人さえ露に濡れるものだったよ
「露けし」は露に濡れて湿っぽい状態のこと。
虫の音を聞くと湿っぽい気分になるというのです。
いっぽう望城の勅撰入集歌は二首。
髣髴(ほのか)にぞ鳴きわたるなる郭公 み山をいづる今朝のはつ声
(拾遺和歌集 夏 坂上望城)
かすかに鳴いて飛んで行ったな ほととぎすよ
深山から出ていく今朝の最初の一声は
どちらも平凡な印象ですが、
二人とも歌会や歌合に参加していたそうですから、
そこそこの歌詠みではあったのかもしれません。