『小倉百人一首』
あらかるた
【280】過ぎ去りし栄華
恵慶法師の交友
平安中期の僧恵慶(えぎょう)が
紀貫之(きのつらゆき 三十五)の子時文(ときふみ)と
交わした歌が伝わっています。
《詞書》
貫之が集をかりて 返すとてよみ侍りける
ひとまきにちゞのこがねをこめたれば 人こそなけれ声はのこれり
(後拾遺和歌集 雑 恵慶法師)
一巻にさまざまな黄金(こがね)を込めたからこそ
本人は亡くなっても名声は残ったのですね
時文から貫之の家集を借りていたようです。
「千々の」は「父の」を掛けているのでしょうか。
時文からの返歌は
いにしへのちゝのこがねはかぎりあるを あふはかりなき君が玉章
(後拾遺和歌集 雑 紀時文)
昔の父の黄金(=和歌という遺産)は限りあるものですが
あなたの玉章(たまずさ=お手紙)は限りもなくうれしく思います
恵慶は兼盛(かねもり 四十)や重之(しげゆき 四十八)などとも
親交があり、歌会にもたびたび参加していたことから、
都に近いところ、あるいは洛中に住んでいたのではないかと
考えられています。
《詞書》
山里に人の許(もと)にて桜の散るをみて
桜散る春の山辺は憂かりけり 世をのがれにと来しかひもなく
(恵慶法師集)
桜の花が散る春の山辺は物憂いものだったよ
世を逃れようと来た甲斐もなかったなぁ
憂き世を逃れるつもりが、
散る花を見て憂さを味わうはめになってしまったと。
しかし世を逃れるためなら山里の人の家ではなく、
山寺にでも行けばよかったのです。
生涯についてほとんど情報がない恵慶ですが、
奥山に籠って修行に専念するようなタイプではなかったようです。
寺になっていた河原院
恵慶は河原左大臣(十四)の子孫
安法(あんぽう)法師のもとをたびたび訪れ、
歌会に参加していました。
百人一首のこの歌はその際に詠まれたもののようです。
八重葎しげれる宿のさびしきに 人こそ見えね秋は来にけり
(四十七 恵慶法師)
葎(むぐら)が幾重にも茂る寂しい住まいに
訪れる人の姿はないが秋だけはやってきたことだ
また
すだきけむ昔の人もなき宿に たゞかげするは秋の夜の月
(後拾遺和歌集 秋 恵慶法師)
にぎやかに集っていた昔の人々がいなくなった住まいに
姿を見せるのはただ秋の夜の月のみ
歌にある「宿」は河原左大臣の旧宅のこと。
『源氏物語』のモデルにもなった大豪邸ですが、
恵慶のころには寺院になっており、
かつての栄華は偲ぶべくもありませんでした。
そこに住んでいたのが安法法師。
僧侶としてより歌人として知られた人物であり、
恵慶とは気が合ったのかもしれません。