『小倉百人一首』
あらかるた
【282】尾の上の桜散りにけり
酒宴の桜
僧正遍昭(へんじょう 十二)は五十代の半ばに
元慶寺(がんぎょうじ/がんけいじ)の住職だったことがあります。
京都山科区北花山に現存するこの寺院には
息子の素性法師(そせいほうし 二十一)が
身を寄せていたことがあるらしく、このような歌が伝わっています。
《詞書》
花山にて道俗さけたうべけるおりに
山守はいはゞいはなむ 高砂のをのへの桜折りてかざさむ
(後撰和歌集 春 素性法師)
山守(やまもり=山の番人)は(文句を)言うなら言うがいいさ
(おれたちは)山の峰の桜を折って髪に飾ろうじゃないか
詞書(ことばがき)に道俗(どうぞく=僧侶も俗人も)
酒をいただいているときに詠んだとあります。
お坊さんを含むグループが酒盛り?
お坊さんが髪飾り?
あれこれ疑問のある歌ですが、
父親の遍昭は見ていなかったのでしょうか。
ところで、百人一首には
この歌とまったく同じ句を含む歌があります。
高砂の尾の上のさくら咲きにけり 外山の霞立たずもあらなむ
(七十三 権中納言匡房)
高い山の峰の桜が咲いたなぁ
(手前の)里の山の霞は立たないでほしいものだ
大江匡房(おおえのまさふさ)の歌です。
こちらも詞書に「人々さけたうべて歌よみ侍りけるに」とあり、
素性法師とおなじように酒宴での一首でした。
場所は内大臣藤原師通(もろみち)の邸。
師通は摂関家の御曹司で内大臣ですから、匡房にとっては上司。
しかしこの若き政治家は、匡房の教え子でもありました。
桜を覆い尽くす白い霞
当代一の学者と謳われた匡房は
師通の父関白師実(もろざね)と親しく、
息子師通の家庭教師を引き受けていました。
師通はのちに堀河天皇の関白となりますが、
天皇の東宮学士(とうぐうがくし)を務めていたのも匡房でした。
東宮学士は皇太子に学問を教える官人のことです。
堀河天皇の即位と師通の関白就任は
教え子ふたりが国のトップの座に就いたということ。
天皇はのちに「末代の賢王」と讃えられるほど熱心に政治に取り組み、
師通はそれを献身的に支えました。
匡房は権中納言に任ぜられて従二位に昇進しており、
ふたりの恩師への感謝の思いが感じられます。
匡房からすればまさに高砂の尾の上に新しい桜が咲いたのですが、
それを快く思わなかったのが白河上皇でした。
院政政治を行うために譲位したのに、
若き帝と関白は上皇の政治介入を拒んだのです。
しかし外山の霞はほどなく桜を覆い隠すほどに立ちこめ、
天皇の実権を奪うまでに強大化します。
師通と堀河天皇が若くして世を去り、
五歳で即位した鳥羽天皇には
祖父白河上皇の圧力に逆らう力がなかったからです。
匡房はこれら一部始終を見届けた天永二年(1111年)、
七十一歳で亡くなっています。
保元平治の乱に代表される混乱期が始まろうとしていました。