『小倉百人一首』
あらかるた
【288】浮かれ法師の深慮
素性法師は道連れ出家
素性法師(そせいほうし 二十一)は
僧正遍昭(そうじょうへんじょう 十二)の息子。
俗名は良岑玄利(よしみねのはるとし)といい、
父親が出家する際「法師の子は法師になるがよき」と
道連れにされたという話が伝わっています。
道心なき出家であり、素性独特の
軽妙でのびやかな作風はその反映だとも言われています。
父遍照の作品と比べてみましょう。
花ちらす風のやどりはたれか知る 我にをしへよ行きて恨みむ
(古今和歌集 春 素性法師)
花を散らす風の宿所をだれか知らないか
わたしに教えてくれ 行って苦情を言おうじゃないか
蓮(はちす)葉のにごりにしまぬ心もて なにかは露を玉とあざむく
(古今和歌集 夏 僧正遍昭)
蓮(はす)の葉は泥の濁りに染まらない清らかな心をもちながら
どうして(葉の上の)露を玉に見せかけてだますのだ
花を散らした風に抗議してやろうという息子素性。
蓮の葉に人の目を欺くなと文句をつける父遍昭。
どちらも戯れの歌ですが、
素性の歌は字面(じづら)そのままの内容、
遍照の歌は深い意味がありそうです。
波立たぬ淵のように
遍照は修行に励んで僧正にまで上り詰めましたが、
素性はその父のもとで気楽な僧侶生活を送っていたようです。
思ふどち春の山辺に打ちむれて そこともしらぬ旅寝してしが
(素性法師集)
気の合った者同士で春の山辺に連れ立って行き
場所も定めず旅寝をしたいものだ
無計画な行き当たりばったりの行楽。
こんな歌を詠むから浮かれ法師だと思われてしまうのです。
しかし同じ「思ふどち」でも
思ふどち折りて暮らさむ岩つゝじ いはぬ事をしいひ尽すとも
(素性法師集)
気の合う者同士で岩躑躅でも折りながら
ふだん言わないことを言い尽しても時を過ごしたいものだ
なにか秘めた思いがあったのかと思わせます。
そしてこの歌
そこひなきふちやは騒ぐ 山河のあさき瀬にこそあだ浪はたて
(古今和歌集 恋 素性法師)
果てもなく深い淵は騒ぐ(=波立つ)ことがあるだろうか
山を流れる川の浅瀬にこそ無駄な波が立つのだ
『古今和歌集』が恋歌に分類しているため、
好きだ好きだと言わないのは思いが深いから、
というふうに解釈されています。
しかし、むやみに騒ぎ立てない人物は思慮深い、
というふうにも読めないでしょうか。
素性は実際のところ、何を考えていたのでしょうね。