『小倉百人一首』
あらかるた
【241】勅撰歌人と呼ばれたい
勅撰集の政治的配慮
百人一首は『古今和歌集』から『続後撰(しょくごせん)和歌集』までの
十冊の勅撰(ちょくせん)集から採られています。
勅撰集は天皇の勅命(ちょくめい)や上皇の院宣(いんぜん)によって
編纂され、権威あるものとみなされています。
平家の都落ちに際して、平忠度(たいらのただのり)は
藤原俊成(ふじわらのとしなり/しゅんぜい 八十三)を訪れ、
新しい勅撰集に一首でも選んでいただければと
一巻の歌集を託していきました。
これは『平家物語』にも書かれている有名なエピソード。
命の危険を冒してまで引き返してきたのは、
歌人としての名誉のためだったといわれています。
俊成は『千載(せんざい)和歌集』に忠度の歌を一首選びましたが、
作者名はなく、よみ人知らずとなっています。
ほかにも平経盛(つねもり=清盛の弟)などの
平家の武将の歌はよみ人知らずとされており、
政治的な配慮が感じられます。
『千載和歌集』は文治四年(1188年)の成立。
三年前の壇ノ浦の戦いで平家は滅び、
朝廷は頼朝に東国の守護・地頭の任免権限を与えていました。
まさに鎌倉幕府が誕生しつつあった時期にあたり、
歌集に新政権の旧敵の歌人名を載せるのははばかられたのでしょう。
勅撰歌人という名誉
勅撰集は作られた時代の好みや傾向をあらわすため
時代を映す鏡といわれることもあるのですが、
人選の面でも時代を映す場合があったのです。
俊成の息子定家(さだいえ/ていか 九十七)が編纂した
『新勅撰和歌集』も例外ではありませんでした。
承久の乱(1221年)の後だったため、首謀者である
後鳥羽院(ごとばのいん 九十九)、順徳院(じゅんとくいん 百)の
歌を採ることができなかったのです。
両院はすぐれた歌人であるだけでなく、
定家のよき理解者、庇護者であったにもかかわらず…。
定家の日記『明月記』を見ると、
完成前に摂政藤原道家(みちいえ)と相談しながら
乱に関係する歌人たちを省き、鎌倉武士の作品を加えるなどして
幕府に気を遣っていたことがわかります。
いっぽうで『明月記』にはおもしろい話も記されています。
新しい勅撰集が編まれると知れるや、
あちらこちらで歌会や歌合(うたあわせ)が開かれ始めたとか、
定家のもとに次々と個人の歌集が送られてきて閉口したとか。
歌会、歌合はもちろん
そこで詠まれた歌を記録しておいて選んでもらうためです。
「勅撰歌人」と呼ばれて名前と作品が後世に残るチャンス。
歌人たちのモチベーションが上がったのでしょう。
勅撰集には歌壇の活性化という効果もあったのですね。