『小倉百人一首』
あらかるた
【243】友則を救った人物
花咲かぬわが身
紀友則(きのとものり 三十三)は百人一首を代表する歌人のひとり。
貫之(つらゆき 三十五)の従兄(いとこ)にあたりますが、
いつ生まれていつ亡くなったのかを含め、
その生涯はほとんど謎につつまれています。
四十歳を過ぎるまでめぼしい官職に就けず
不遇の日々を送っていたと考えられていますが、
それは『後撰和歌集』に次の贈答歌が残されているからです。
《詞書》
紀友則まだつかさたまはらざりける時
ことのついで侍りて年はいくらばかりにかなりぬると
問ひ侍りければ 四十余になんなりぬると申しければ
今までになどかは花の咲かずして よそとせあまり年切りはする
(後撰和歌集 雑 贈太政大臣)
返し
はるばるのかずは忘れずありながら 花咲かぬ木をなにゝうへけむ
(後撰和歌集 雑 紀友則)
友則がまだ官(つかさ=官職)を得ていないころ、
藤原時平(ふじわらのときひら)が何かのついでに年齢を尋ねました。
四十余(よそじあまり)と聞いて時平は
その年になるまでどうして花も咲かず、
実も結ばなかったのかとおどろいています。
年切り(としぎり)は樹木が花も実もつけずに
年を越してしまうことを指しますから、
官職を得られずに何度も年を越したことを指しているのでしょう。
それに対し友則は
除目(じもく=人事異動)の行われる春はかならずやってくるのに
自分のような花の咲かない木をなぜ植えたのかと、
嘆いているような恨んでいるような歌を返しています。
敵役時平の温情
藤原時平は菅原道真(二十四)を左遷したことで知られ、
歌舞伎の影響などもあって大悪人のように思われています。
しかし上記『後撰和歌集』の歌人名に「贈太政大臣」とあるのは
死後太政大臣の位を贈られたことを意味し、
業績が高く評価されていたことがわかります。
友則との関係で言えば、
友則が土佐掾(とさのじょう=土佐の国司の判官)という官職にありつき、
つづいて内記(ないき)の職を得たのは
時平の尽力があったからではないかといわれています。
内記は天皇の命令を伝える公文書や辞令を書いたり、
宮中の記録をとったりする役職です。
文才があって書もうまくないと務まらないエリート職であり、
のちに貫之もこの職に就いています。
左大臣にまで上り詰めた時平が友則の境遇に同情し、
その才能にふさわしい官職を得させてやったのではないか。
時系列からそういう推測が成り立つのですが、
道真には敵役(かたきやく)にあたる時平、
不遇をかこつ優秀な人物にはやさしかったのかもしれません。