『小倉百人一首』
あらかるた
【248】その後の話
その後どうなったの?
『古今和歌集』にこのような
恋の誓いの歌が載っています。
君をおきて あだし心をわがもたば すゑの松山浪もこえなむ
(古今和歌集 東歌 みちのくうた)
あなたをさしおいて もしもわたしが浮気心を持つならば
末の松山を波が越えてしまうでしょう
この歌の「その後」を詠んだのが、
百人一首の清原元輔(きよはらのもとすけ)でした。
契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山浪越さじとは
(四十二 清原元輔)
誓いましたよね 涙に濡れた袖を絞りながら
末の松山を波が越すことはないと
末の松山を波が越すことがないように、
あなたへの思いはいつまでも変わらない…。
あなたはそう誓ったじゃありませんかと。
相手はいつのまにか心変わりしてしまったようです。
元輔が詠んだのは他人の歌の「その後」です。
これは本歌(ほんか)取りではよくあること。
しかし藤原家隆(いえたか 九十八)は、
自分の歌の「その後」を詠んでいます。
水無月の神も受けずやなりぬらむ 今日の御禊はする人もなし
(壬二集下)
六月の神も願いを聞いてくれなくなったのだろう
今日は(祓えの日だというのに)禊(みそぎ)をする人もいない
百人一首で「楢(なら)の小川の夕ぐれは」と
上賀茂神社の六月祓(みなづきばらえ)を詠んでいた家隆(前話参照)。
それが今、六月の晦日だというのに小川にはだれもいないというのです。
神の利益(りやく)がなくなったのか、
人々の信心が薄らいだのか…。
いにしえの仁政を偲ぶ
上記の歌は自分の歌をネタにした冗談かもしれません。
しかしこの歌はどうでしょう。
煙たつ民の竃(かまど)もいかゞ見む 雲居に残る高き屋もなし
(壬二集下)
煙が立ち昇る民衆の家のかまど(=民の暮らしぶり)を
どうやって知ることができようか
もはや宮中には高殿(たかどの=高い建物)が
残っていないのだから
この歌は仁徳天皇の次の歌を本歌としています。
高き屋にのぼりて見れば 煙たつ民のかまどはにぎはひにけり
(新古今和歌集 賀歌 仁徳天皇御歌)
高殿に上って見ると 家々から煙が立っている
人々の煮炊きするかまどは豊かになったのだ
即位後まもない仁徳天皇が高殿から見わたすと、
あたりの民家からは煙が立ち昇っていませんでした。
民の困窮を察した天皇は、以後六年にわたって課税を休止させます。
みずからも粗食に甘んじて質素倹約につとめ、
皇族や貴族、官人の衣類の新調を禁止。
建物の補修さえ行わなかったため、
内裏は雨漏りがするほど荒れ放題だったとか。
上記の歌は、課税免除の効果があらわれてきたのを
高殿から確認したときの歌といわれています。
それからはるかに時を経て家隆は、今は高殿がないと詠んでいます。
ほんとうは民衆の暮らしを思いやる為政者がいないと
言いたかったのかもしれません。
源平の戦(いくさ)に揺れ、武家と公家の争いが絶えず、
当時の日本はたびたび政治の空洞化が起こっていました。
思慮深い温厚な人物だったと伝えられる家隆のことですから、
民衆の苦しみに心を痛めていたのでしょう。