『小倉百人一首』
あらかるた
【257】順徳院と逢坂の関
名所を詠む歌会
百人一首最後の歌人順徳院(じゅんとくいん 百)は
藤原定家(九十七)を師と仰いで幼少から和歌に親しみ、
即位後は内裏でたびたび歌会を催しています。
この歌はそのうちの一つ
《内裏名所百首》で詠まれたもの。
知る知らず行くも帰るも逢坂の 関の清水に影は見ゆらし
(内裏名所百首 雑 順徳天皇)
知る人も知らぬ人も 行く人も帰る人もここで逢うという
逢坂の関の清水にはその姿が映っていることだろう
おわかりのように、これは蝉丸の歌の本歌取りです。
これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関
(十 蝉丸)
これがあの 行く人も帰る人もここで別れ
知る人も知らぬ人もここで逢うという逢坂の関なのだな
蝉丸の歌は俗謡ふうの軽みが特徴。
順徳院のほうはずいぶん落ち着いたおもむきですね。
逢坂の関を行き来する人々の姿を関の清水が映している…。
このすぐれた着眼により、想像で詠んだ歌にもかかわらず、
順徳院の作品には本歌とは異なる叙情性が感じられます。
《内裏名所百首》は在位中の建保三年に催されたもので、
そのとき順徳院は十七歳でした。
メンバーは院を含めて十二名。
師の定家をはじめ藤原家隆(いえたか 九十八)や
俊成卿女(しゅんぜいきょうのむすめ=藤原俊成の養女)などの
著名な歌人のほか、親しい臣下や女房たちで構成されていました。
百首は春、夏、秋、冬、恋、雑の六部に分けられ、
各地の名所百箇所がそれぞれに歌題として割り振られています。
たとえば伊勢の海は春の部に、宇治川は秋の部に、というふうに。
逢坂の関は雑(ぞう=その他)の部に分類されていました。
配流後もつづいた主従関係
十二名のうち「逢坂の関」で順徳院同様に
蝉丸を詠んでいるのは家隆です。
あふさかの関の庵の琴の音は ふかきこずゑの松風ぞふく
(内裏名所百首 雑 宮内卿家隆朝臣)
逢坂の関の(蝉丸の庵の)琴の音は
色濃い松の梢を吹く風がかき鳴らしているのだ
蝉丸については琵琶の名手だったという伝承と
琴の名手だったという伝承があり、
家隆の歌は『今昔物語集』にもある琴の名手説に拠ったものです。
次は末席に座を連ねていた北面の武士
藤原康光(やすみつ)です。
春の色に梢のそらはかはれども なほ山さむしあふさかのせき
(内裏名所百首 雑 蔵人左衛門少将藤原康光)
木々の梢あたりは春の色に変わったけれど
まだ山は寒いのだよ 逢坂山の関も
院の北面に詰めて警護に当たっていた武士が
歌会に召されたのは、
歌才を見込まれていたからでしょう。
順徳院が承久の乱(1221年)に敗れて佐渡に流されたとき、
康光は配流(はいる)先まで随行しています。
二十年後に院の遺骨を都に持ち帰ったのも康光といわれており、
主従関係は長きにわたってつづいていたことになります。
院は佐渡の地でも作歌に励んでいましたから、
すでに公人ではなくなっていた二人は、もしかしたら
和歌の友という関係だったかもしれませんね。