読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【259】屏風歌の誕生


和歌に見る日本美術史

平安時代に誕生したとされる
日本の風景や風俗を描いた絵画を大和絵(やまとえ)と呼びます。
それまで一般的だった中国風の絵画は唐絵(からえ)です。

貴族社会で和歌の文化が成熟しはじめた時期と
大和絵の成立時期はかさなっており、
二つは密接に結びついていたといわれます。

大和絵の多くは屏風(びょうぶ)に描かれて
室内の装飾に用いられました。
絵には和歌(=屏風歌:びょうぶうた)が添えられており、
その歌は能書家が清書したものでした。

屏風は絵と歌と書を同時に鑑賞できる
芸術作品だったのです。

しかし残念ながらそのほとんどは失われ、
とくに初期の作品は現存していないのだそうです。
実物はないけれど証拠はある、というので引き合いに出されるのが、
在原業平(ありわらのなりひら)のこの歌です。

ちはやぶる神代もきかず 龍田川から紅に水くくるとは
(十七 在原業平朝臣)

不思議なことの多かった神の時代でさえ 聞いたことがありません
竜田川が水を鮮やかな赤にくくり染めするとは

『古今和歌集』の記述から、
陽成院(ようぜいいん 十三)が東宮だったころ(870年前後か)に、
その母藤原高子(ふじわらのたかいこ)の求めによって詠まれたものと
推測できるのです。『古今和歌集』によれば、
屏風には竜田川に紅葉が流れるさまが描かれていました。

それより少しあと、醍醐(だいご)天皇は
素性(そせい 二十一)を召して屏風歌を書かせ、
帰りがけに酒を勧めてねぎらい、お礼の歌を贈っています。

これらは九世紀後半のこと。
屏風絵に屏風歌が添えられるのは通例となっていたようです。
内裏や皇族、貴族の邸で屏風が新調されるたびに歌人が呼ばれ、
絵にあわせた歌を献上していたのです。


祝賀のために作られた屏風

屏風はめでたいことがあったときに制作されました。
誕生、成人、結婚や長寿の祝いなどがおもな機会であり、
新年に屏風を新調することもありました。
素性が詠んだのは新年用の屏風歌だったようです。

あらたまの年たちかへるあしたより 待たるゝものは鶯のこゑ
(拾遺和歌集 春 素性法師)

旧年から新年へ 年が改まるこの朝からは
うぐいすの鳴き声が待たれてなりません

詞書(ことばがき)に月次(つきなみ)屏風のための歌とあるので、
一年十二か月の行事や風景を描いた月次絵の屏風とわかります。

ほかに春夏秋冬の風物を主題にした四季絵の屏風、
諸国の名所を描いた名所絵の屏風もあり、
この三種類が屏風絵の中心的な画題でした。

業平が歌を詠んだ屏風は場所が竜田川と特定されているので、
名所絵が描かれていたのでしょう。

名所はすでに多くの歌に詠まれている有名な場所にかぎられ、
絵師たちはそれらの歌を参考に各地の名所を描きました。
実際の風景ではなく、歌のイメージを描いたのです。

屏風歌はそのようにして描かれた絵を見て詠んだものですから、
名所絵の屏風は実在の名所からはなれた
独自の空想世界を生み出していたことになります。