読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【220】お寺で縁結び


イケメンに殺到する女たち

イケメン好きの女性は昔から少なくなかったのでしょう、
清少納言は『枕草子』にこんなことを書いています。

説経の講師(こうじ)は顔よき
講師の顔をつとまもらへたるこそ
その説くことのたふとさもおぼゆれ

経典の講釈をするお坊さんは顔がよくなくちゃ
講師の顔をじっと見つめていてこそ
講義の尊さも立派さも感じられるのだから

僧侶も顔がよくないと話を聞いてもらえないのか…。
僧侶は俳優でもアイドルでもないのですが、
講師がイケメンだとわかると、
その法会にはほんとうに女性が殺到したのだそうです。

講師の話を聞きに行くのには、顔ではなくて
ほんらいの目的がありました。

それは結縁(けちえん)。
仏教との縁を結ぶという意味です。
今すぐ仏道に入ったり悟りを得たりすることはできないけれど、
いつか出家するときのために縁を結んでおこうというのです。

結縁は平安時代に盛んになったといわれており、
講義を聴聞(ちょうもん)するのもそのうちのひとつでした。
法華経の講義を八回に分けて行う
「法華八講(ほっけはっこう)」がよく知られています。


後世を願う結縁

清少納言は結縁のために訪れていた菩提寺で
このような歌を詠んでいます。

求めてもかゝる蓮の露をおきて 憂き世にまたは帰るものかは
(千載和歌集 釈教 清少納言)

みずから求めてでも懸かりたい蓮(はちす)の露をさしおいて
どうしてまた憂き世に帰るものですか

だれかが早く帰って来いと言ってよこしたらしいのですが、
蓮の葉の上のきらきらした露のような
法華八講の聴聞をやめるわけにはいかないというのです。

聴聞を終えてその感想を歌に詠んだ人も多く、
勅撰集の釈教歌(しゃっきょうか)の巻には
さまざまな歌人の作品が収められています。

誓ひをば千尋の海にたとふなり つゆも頼まば数に入りなむ
(千載和歌集 釈教 崇徳院御製)

観音さまの誓願(せいがん)は千尋(ちひろ)の海にたとえられる
わずかでもお頼みすれば このわたしも
救われる衆生(しゅじょう)のうちに入れていただけよう

崇徳院(すとくいん 七十七)は
観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の衆生(=人々)救済の
誓願(=必ず成し遂げるという誓い)について、
千尋の海のように深いと教えられたのでしょう。

人々はこのような結縁を通じて仏教に親しみ、
その教えの一端に触れて
後世(ごせ=来世の安楽)を願っていたのです。