『小倉百人一首』
あらかるた
【221】望郷のハルカス
阿倍野から見はるかす
大阪の新名所、日本一の超高層ビル、あべのハルカス。
すでにすっかり街になじんでいますが、
この名称の由来をご存知でしょうか。
「あべの」は大阪市阿倍野区の「阿倍野」です。
そして「ハルカス」のほうは
古語の「晴るかす」を「はるか」に掛けたものです。
「晴るかす」は「見晴かす」で、はるか遠くまで見わたすことをいい、
「見」を取ってしまうと、晴れ晴れとした気分にさせること。
歴史をさかのぼると、
縄文の昔、阿倍野は大阪湾に突き出した半島の一部でした。
海水面が下がって高台になったわけですが、
このあたりが古代の難波(なにわ)の中心地。
難波という地名は波(または潮)が急なためといい、
「浪速」や「浪花」という表記も古くから見られます。
和歌でおなじみの「難波津/浪速津(なにわづ)」は
難波の港を指します。
遣唐使たちはこの港から大海原へ船出していき、
防人(さきもり)たちはここに集結してから任地に向かいました。
大陸からの使節や文物が到来したのもこの港です。
長安から見はるかす
日本の留学生の草分け阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)も
難波津から旅立ったのでしょう。
大陸文化は漂着や亡命などで
渡来した人々によってもたらされていました。
留学生を送るという積極的な方法がとられるようになったのは
大和朝廷が力をつけてきた七世紀くらいからといわれます。
仲麻呂の唐への旅立ちは養老一年(717年)のことでした。
官僚としても詩人としても優れた能力を発揮した仲麻呂は
玄宗皇帝に重用されて帰国できず、
在唐三十数年を経てようやく帰国のめどが立ったときに
詠まれたと伝えられるのが、百人一首のこの歌です。
天の原ふりさけみれば 春日なる三笠の山にいでし月かも
(七 安倍仲麿)
空を仰ぎ見ると月が出ているが
あれはかつて春日の三笠山に出ていた月なのだなあ
昇る月を眺めてはるか東の海のかなたにある祖国に思いを馳せる仲麻呂。
しかし仲麻呂の乗った船は嵐に遭って安南(ヴェトナム)に漂着し、
帰国はかないませんでした。
ところで仲麻呂の「阿倍」と阿倍野の「阿倍」は、
偶然の一致なのでしょうか。
仲麻呂を生んだ阿倍氏は
飛鳥時代あたりから多くの武人、政治家を輩出してきた有力豪族でした。
いくつかの系統に分かれ、各地に領地を持っていましたが、
そのうちのひとつがここ、阿倍野でした。
同族の陰陽師(おんみょうじ)安倍晴明(あべのせいめい)も
阿倍野で生まれたといわれています。
阿倍氏ゆかりの地で
仲麻呂の住んだ長安が見えそうなほど高い展望台に登ると、
千三百年の時を超えて、留学生仲麻呂の望郷のまなざしが
受け止められそうな気がします。