読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【223】ももしきを偲ぶ


ももしきは大建造物?

もゝしきや 古き布子を重ね着しても
冬の夜風は身にあまる

これは幕末から明治にかけて歌われていたという
都々逸(どどいつ)の歌詞です。

布子(ぬのこ)は麻や木綿の綿入れの着物のこと。
股引(ももひき)を穿いて布子を重ね着しても寒いというのですが、
どこかで見たような言葉が並んでいると思いませんか?

そう、この都々逸は百人一首の
順徳院(じゅんとくいん)の歌のパロディなのです。

もゝしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり
(百 順徳院)

皇居の古びた軒端に生える忍草(しのぶぐさ)を見るにつけても
偲んでも偲びきれない昔であることよ

「ももしき」は漢字では「百敷」と書いて皇居、宮中を指す言葉です。
「百磯城」や「百師木」という表記もあり、
多くの石や木を用いて作った大きな宮城を意味するのではないかとも。

また「ももしきや/ももしきの」という枕詞は
「大宮」「内」などにかかります。

たとえば

百敷の大宮人はいとまあれや 桜かざしてけふもくらしつ
(新古今和歌集 春 山部赤人)

宮中にお仕えしている人たちは暇があるんだろうか
桜を髪に飾って今日も暮らしていたよ


ももしきを去る日

「ももしき」をめぐっては伊勢(十九)が
宇多天皇と交わした贈答歌がよく知られています。

寛平九年(897年)のこと、天皇が譲位することになり、
その中宮(=妃)温子(おんし)に仕えていた伊勢も
宮中を去ることになりました。

わかるれどあひも惜しまぬもゝしきを 見ざらむことや何かかなしき
(後撰和歌集 離別 伊勢)

別れたところで惜しみ合う人もいない宮中を
見られなくなっても どうして悲しいことがありましょう

伊勢はこの歌を弘徽殿(こきでん=温子の御所)の
壁に書きつけておきました。

歌は帝の目に触れることとなり、
このような返歌が

身ひとつにあらぬばかりを おしなべて行きめぐりてもなどか見ざらむ
(後撰和歌集 離別 宇多天皇)

あなただけが別れを惜しんでいるのではない
だれもがまた めぐりめぐってでもなんとか会おうではないか

わざわざ中宮の部屋に書いたのですから、
帝が見ることを想定していたのでしょう。
帝は自分との別れを惜しまないのではないかと、
相手の気持を確かめるつもりで。

伊勢は中宮に仕える身でありながら帝の子を産み、
伊勢の御息所(みやすんどころ)と呼ばれていました。
譲位にともなってその地位も失われるわけですから、
悲しくないというのは本心ではなかったでしょう。

宮中を去ってからの伊勢は
帝の第四皇子敦慶(あつよし)親王に寵愛され、
歌人として有名な中務(なかつかさ)を産んでいます。

天皇に次いで親王。
皇族に愛されつづけた伊勢は、
その後天寿を全うしたと伝えられています。