『小倉百人一首』
あらかるた
【228】忘れられた天才歌人
豪族ゆえの苦難
紀貫之は『古今和歌集』の序文でふたりの万葉歌人に触れ、
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ 三)を「うたのひじり」と讃え、
山部赤人(やまべのあかひと 四)はそれ以上の歌詠みだと言っています。
しかし『万葉集』最大の歌人である大伴家持(おおとものやかもち 六)は
名前さえ出てきません。
平安時代後期になると、人麻呂を神と崇める
人麻呂影供(ひとまろえいぐ)が流行します。
人麻呂こそ最も崇拝すべき歌仙と考えられていたためで、
このときも家持は忘れ去られていたように見えます。
万葉収録歌が多いだけの凡庸な歌人ではないのに、
なぜ冷遇されてしまったのでしょう。
家持を生んだ大伴氏は、大和政権発展期に
政治と軍事で地位を築いた有力豪族でした。
蘇我氏との主導権争いに勝ち残り、
大化の改新のころには安定した勢力を保っていましたが、
家持の時代には新興の藤原氏に押されており、
家持の昇進が中納言にとどまったのもそのためでした。
この時期の歴史を繙(ひもと)くと、
失脚した人物に大伴氏が多いのに気づきます。
政争が相次ぎ、そのたび宿敵藤原氏に敗れていたのです。
いつどのような陰謀に巻き込まれて足をすくわれるかわからない、
政治家としての家持はそんな状況にありました。
死しての不名誉
延暦四年(785年)九月、長岡京建設の指揮に当たっていた
藤原種継(たねつぐ)が暗殺されるという事件が発生します。
朝廷は大伴氏、佐伯氏の共謀であると断定。
家持も首謀者のひとりとみなされ除名(官位剥奪)処分となりました。
しかし家持はこのとき、すでにこの世の人ではなかったのです。
家持は最後の任地である多賀城(たがじょう)で没しており、
死後二十日以上経過していました。
多賀城は末の松山で知られる陸奥(みちのく)の地。
そんな遠いところで、しかも死んでしまっているのになぜ。
理解しにくい処分ですが、うわさでは
息子が隠岐に流されたとき、
家持の遺骨もともに流されたといわれています。
『古今和歌集』が成立したころ、
中央政界はすでに藤原氏の手中にありました。
平安時代の歴代天皇はほぼすべて母親が藤原氏であり、
国の中枢は藤原氏が独占していたのです。
藤原氏にとって大伴氏はかつての宿敵。
その一員で罪に問われたこともある家持は、
意図的に無視されることになってしまった…、
そう考えられないでしょうか。
うづらなく古しと人は思へれど 花橘のにほふこの宿
(万葉集巻第十七 3920 大伴宿祢家持)
(うずらが鳴くくらい)古いと人は思っているけれど
花橘(はなたちばな)が咲き香る我が家がいちばんだよ
「うづらなく」は「ふる」に掛かる枕詞。
地方官を歴任させられていた家持が
久々の奈良の旧宅で詠んだこの歌からは、
政争とは無縁の暮らしを望んでいた
一歌人の姿が見えるような気がします。