『小倉百人一首』
あらかるた
【229】物言う花
年上の恋人
「夕されば」の源経信(みなもとのつねのぶ 七十一)は
若いころ、年上の女房と恋人関係にありました。
『金葉(きんよう)和歌集』には
このようなやりとりが載っています。
おくりてはかへれと思ひし魂の ゆきさすらひてけさはなきかな
(金葉和歌集 恋 出羽弁)
あなたを見送ったら帰ってくると思っていたわたしの魂は
(そのまま)雪の中をさまよっていて
今朝になっても留守のままです(=わたしは死んだも同然です)
冬の夜の雪げの空にいでしかど 影よりほかに送りやはせし
(金葉和歌集 恋 大納言経信)
冬の夜の雪模様の空の下 あなたの家をあとにしたけれど
あなたの姿以外にも見送っていたものがあったのですか
夜明け前に恋人のもとから帰ってきた経信に、
あとを追うように熱烈な恋の歌が届けられたのです。
「雪」と「行き」を掛詞にして、
魂がない、つまり死んだような状態だというのですが、
経信の返歌はずいぶんあっさりしていますね。
歌を贈った出羽弁(いでわのべん/でわのべん)は
一条天皇の中宮上東門院彰子(じょうとうもんいんしょうし)に
仕えていたことがあります。
彰子のもとには紫式部(五十七)など
六人もの百人一首歌人が女房として出仕していました。
出羽弁は当代一の文芸サロンに在籍していたことになりますが、
その期間は短かったようです。
桃園に古を思う
知名度では六人にかなわない出羽弁。
しかしこの歌は比較的知られているのではないでしょうか。
ふるさとの花のもの言ふ世なりせば いかにむかしのことを問はまし
(後拾遺和歌集 春 出羽弁)
なつかしいなじみの里の花がものを言うのであれば
どうにかして昔のことを訊ねてみたいものね
世尊寺(せそんじ)の桃の花を詠んだ一首。
桜が有名な奈良の世尊寺ではなく、
京都一条の北にあった世尊寺です。
建立したのは三蹟(さんせき)のひとり藤原行成(ゆきなり)。
行成の父は義孝(よしたか 五十)、
祖父は謙徳公(けんとくこう)伊尹(これまさ/これただ 四十五)です。
もともと清和天皇の皇子貞純(さだずみ)親王が営んでいた桃園を
手に入れたのが伊尹であり、行成はそれを受け継いでいたのでした。
出羽弁と行成はほぼ同世代ですが、
貞純親王は百年ほど前の人物です。
「むかしのこと」はそれだけ長い時間を込めた言葉なのでしょう。
美人のことを「物言う花」といったり
「解語(かいご)の花」といったりしますが、
これは玄宗皇帝と楊貴妃の故事にちなんだ言葉。
出羽弁はもしかしたら、
美しい桃の花を見て古(いにしえ)の恋の物語にも
思いを馳せていたのかもしれません。