読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【231】天皇に名をつけた男


中国風になった天皇の呼び名

淡海三船。
琵琶湖に浮かぶ三隻の船、みたいですが、
これは人名で「おうみのみふね」と読みます。

三船は大友皇子(おおとものおうじ=天智天皇の子)の
曽孫(ひまご)にあたり、臣下に下って
波乱の生涯を送ったことで知られています。

日本最古の漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』の
撰者ではないかと言われるのは、
三船が奈良時代を代表する超インテリ学者で、
漢詩の名手でもあったからです。

『懐風藻』については推論の域を出ないのですが、
豊富な漢籍の知識を活かして
歴代天皇の諡号(しごう)を考案したのはたしかなようです。

諡号は諡(おくりな)ともいって、
没後にその功績をたたえて贈られる称号のこと。
三船は従来の和風の諡に代えて
漢字二文字の漢風の諡を考案したのです。

名づけたのは神武(じんむ)天皇から
元正(げんしょう)天皇にいたる、ほぼすべての天皇といわれます。

たとえば持統天皇(二)には高天原廣野姫天皇
(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)という
和風の諡があったのですが、漢籍の熟語から
「持統」の二文字が選ばれています。

この二文字には夫である天武天皇の遺志を継いで
政治を行ったという意味が込められているのでしょう。

ほかにも悲劇の伝えられる仲哀(ちゅうあい)天皇、
暴君だった武烈(ぶれつ)天皇、
大陸文化の導入に熱心だった欽明(きんめい)天皇など、
どんな天皇だったかがわかるように考えられており、
三船のネーミングのうまさには感心させられます。


途絶えた伝統

百人一首の範囲では
天智天皇(一)と持統天皇が三船の命名ということになります。

それ以降の天皇では光孝天皇(十五)が
いかにも諡らしい諡と言えますが、
時代が下って三条天皇(六十八)となると、
地名がそのまま諡になっています。

漢字二文字で生前の功績をあらわすという伝統は
平安時代初期に途絶えていました。
その後は功績も人物像も関係なく、
住んだ場所や葬られた場所の名が
諡となる天皇が多くなっています。

三条天皇は京都三条にあった三条院を
仙洞(せんどう=退位後の御所)としていました。

また崇徳院(すとくいん 七十七)と後鳥羽院(ごとばのいん 九十九)、
順徳院(じゅんとくいん 百)の三人は罪に問われた天皇だったため
通常の葬儀も贈諡(ぞうし)も行われず、
没後かなりの年月を経てから諡がつけられています。
これらには鎮魂の意味があったのでしょう。