読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【232】昼はひねもす夜はよもすがら


眠れぬ夜の歌

「四六時中」という言葉は
「二六時中」が時代に合わせて変化したものです。
かつては昼と夜をそれぞれ六時に分けていたため、
六時が二つという意味で「二六時中」と言っていました。

近代になって二十四時間制が取り入れられると、
4×6が24になるということから
「四六時中」にしようと考えたようです。

一昼夜をあらわす「二六時中」に対して
一晩中をあらわす「終夜(よもすがら/よすがら)」は
昭和まではそのままの姿で生きていました。
平成の今でも通じるのでしょうか。

夜もすがらもの思ふころは明けやらで ねやのひまさへつれなかりけり
(八十五 俊恵法師)

一晩中恋に思い悩んでいるこのごろは
なかなか夜は明けず(=いつまでも明るくならず)
寝室の戸の隙間までが(暗いままで)無情に思えるのだったよ

俊恵(しゅんえ)の歌は
隙間を擬人化するという意外性がおもしろいところ。

清原元輔(きよはらのもとすけ 四十二)は
すっきりわかりやすい「よもすがら」を詠んでいます。

思ひ知る人にみせばや よもすがら我がとこなつに置きゐたるつゆ
(拾遺和歌集 恋 清原元輔)

恋の思いを知る人に見せたいものだ
私の庭のなでしこに一晩中降りているあの露を

「とこなつ(常夏)」はなでしこの異名。
なでしこは「撫でし子」に通じるので、愛しい恋人を暗示しています。
恋人を思って一晩中泣いている、そんなわたしに
だれか共感してくれないだろうかというのでしょう。


時さえ忘れて

「よもすがら」の「すがら」は
始めから終わりまでずっとという意味なので、
「昼の間ずっと」は「ひもすがら/ひすがら」となります。
しかし和歌にはあまり用例が見当たらず、
「終日(ひねもす)」のほうが好まれているようです。

待賢門院堀河(たいけんもんいんほりかわ 八十)の姉妹
上西門院兵衛(じょうさいもんいんひょうえ)に
このような歌があります。

ひねもすに見れどもあかで暮れぬるを こよひは花のかげにとまらむ
(久安百首 上西門院兵衛)

昼のあいだずっと見ていても飽きないのに 日が暮れてしまった
今夜はこのまま花の下にいたいものだわ

「とまる」は「泊まる」ですが、そこで眠るのではなく
その場で夜を過ごすことを指しています。

桜に夢中な兵衛のつぎは
紅葉に夢中な紀貫之(きのつらゆき 三十五)です。

ひねもすにこえもやられず あしひきの山の紅葉を見つゝまどへば
(紀貫之集 第三)

朝から晩までかかっても山越えができなかったよ
山の紅葉を見ながらあちらこちらさまよっていたからなぁ