『小倉百人一首』
あらかるた
【236】二つのなこそ
流れの絶えた滝の跡
藤原公任(ふじわらのきんとう)の
「なこそ(名古曽)の滝」で有名な大覚寺(だいかくじ)は
京都御所の西方、太秦(うずまさ)の先にあります。
正式名を旧嵯峨御所大覚寺という門跡(もんぜき)で、
菊の紋章が皇室ゆかりの寺院であることを示しています。
京都には仁和寺(にんなじ)を筆頭に多くの門跡がありますが、
これらの寺院は出家した皇族(もしくは上級貴族)が
門主(もんしゅ=住職)となる決まりでした。
大覚寺の前身は嵯峨天皇の離宮です。
中国への憧れが強かった天皇は
ここに唐風文化の理想郷を作ろうとしたらしく、
巨費を投じて大規模な人工池をもつ離宮を造営。
文人たちを招いて漢詩を楽しみ、池に船を浮かべて遊んだといいます。
平安時代に嵯峨は皇族や貴族たちのレジャーエリアになりますが、
そのきっかけが嵯峨天皇の離宮でした。
昭和五十九年(1984年)に
大沢池(おおさわのいけ)北方になこその滝の跡が発見され、
中島のある大規模な苑池があったことが確認されています。
公任が訪れたときはすでに寺院に改修されていましたが、
池はどうなっていたのでしょうか。
滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ
(五十五 大納言公任)
滝の水が絶えて(音もしなくなって)久しいけれど
その名は流れ伝わって今も聞こえていることだ
なこそ以前のなこそ
公任の歌によってなこその滝が有名になる前、
和歌で「なこそ」といえば勿来(なこそ)の関でした。
福島県に実在した関所で、歌枕にもなっており、
多くの場合「な来そ(=来るな)」との掛詞で詠まれています。
東路はなこその関もあるものを いかでか春の越えてきつらむ
(後拾遺和歌集 春 源師賢朝臣)
東路(あずまじ=東国地方)には「来るな」の関所があるのに
どうやって春は(その関所を)越えて来たのだろう
春は東からやってくるという考えにもとづく
源師賢(みなもとのもろかた)のユーモラスな一首。
しかし源俊頼(としより 七十四)の場合は
なこそといふことをば君がことぐさを 関の名ぞとも思ひけるかな
(金葉和歌集 恋 源俊頼朝臣)
あなたの言った「なこそ」という言葉を
関所の名じゃないかと思ったのですが
(ほんとうは「来るな」という意味だったのですね)
なんと悲しい聞きちがい、と思ったら
「寄関恋(関に寄する恋)」の題で詠まれた題詠の一首でした。
実体験でなくてよかったですね。