『小倉百人一首』
あらかるた
【195】草ぼうぼうの庭
葎は雑草の代名詞
和歌の用語のなかでも難読の部類に入る八重葎(やえむぐら)、
『万葉集』の第十一巻にこのような贈答歌が載せられています。
おもふ人来むと知りせば 八重葎おほへる庭に玉敷かましを
(万葉集 巻第十一 2824 よみ人知らず)
玉敷ける家も何せむ 八重葎おほへる小屋も妹としあらば
(万葉集 巻第十一 2825 よみ人知らず)
あなたが来るとわかっていたなら、
八重葎に覆われた庭に玉(=宝石、真珠の類)を敷いておきましたのに。
そんな冗談めかした女の歌に、玉を敷いた家が何だというんだ、
妹(いも=あなた)と一緒なら草に埋もれた小屋だってかまわないと、
男がまじめに答えています。
玉を敷く前に草刈りをしておけというツッコミはさておき、
葎(むぐら)は繁殖力旺盛な、やっかいな雑草です。
棘(とげ)をもつヤエムグラという名の種類もあるようですが、
和歌の場合は厳密な区別をせず、
葎の類が重なるように密生した状態を八重葎と呼びます。
また庭に雑草が生えて荒れた家や貧しい家を「葎の宿」といい、
「葎生(むぐらう)」という言葉もあります。
「生」は芝生の「生(ふ)」と同じで、
「生えているところ」という意味になります。
さて、百人一首の八重葎は恵慶(えぎょう)のこの歌。
河原の左大臣(十四)の荒れ果てた旧宅を訪れ、
往時を偲びながら詠んだ一首です。
八重葎しげれる宿のさびしきに 人こそ見えね秋は来にけり
(四十七 恵慶法師)
葎が幾重にも茂る寂しい住まいに
訪れる人の姿はないが 秋だけはやってきたことだ
謙称でもあった葎の宿
恵慶の訪れた邸宅はほんとうに草に覆われていましたが、
「八重葎しげれる宿」を謙遜の言葉として用いた例もあります。
八重葎しげれる宿は よもすがら虫の音聞くぞとりどころなる
(詞花和歌集 秋 永源法師)
草ぼうぼうだけれど、終夜(よもすがら)虫の鳴き声が聞けるのが
わたしの家のとりどころ(=取り柄、長所)だと。
普通の植栽でも虫は集まるわけですから、これは謙遜。
自分の家を草の庵(いおり)と呼ぶような感覚でしょうか。
藤原俊成(しゅんぜい 八十三)の立秋の歌も
草に埋もれた自宅を詠んでいます。
やへむぐらさしこもりにし蓬生に いかでか秋の分きて来つらむ
(千載和歌集 秋 皇太后宮大夫俊成)
幾重もの葎に閉ざされて荒れたままのこの家に
どうやって秋は分け入ってきたのだろう
どこにも「わが宿(=わが家)」とは書いてありませんが、
じつはこの歌は恵慶の「八重葎」と次の歌との本歌取りです。
いかでかはたづね来つらむ よもぎふの人もかよはぬわが宿の道
(拾遺和歌集 雑 よみ人知らず)
人も通らず蓬(よもぎ)などの雑草が茂っているのに、
どうやってわたしの家を訪ねてきたのだろうと。
俊成はこの歌から数語を引用して「わが宿」を暗示し、
恵慶の歌からは秋の寂しさ、わびしさを借用しています。
歌壇の指導者として活躍していた俊成が
草ぼうぼうの家に住んでいたとは思えません。
こちらは永源とちがって、情感を演出するための
「八重葎」であり「蓬生(よもぎう)」だったのでしょう。