読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【197】自慢の息子


息子は天才歌人

百人一首に謙徳公(けんとくこう)の名で載る
藤原伊尹(ふじわらのこれただ/これまさ 四十五)、
あるとき自邸で連歌の会を催しました。

その席で

秋はなほ夕まぐれこそたゞならね

という長句(上の句 五七五)が出されたのですが、
だれも短句(下の句 七七)をつけることができませんでした。

そこに進み出たのが伊尹の息子義孝(よしたか 五十)。
わずか十三歳の少年は、すらすらとこう詠みあげました。

荻のうは風萩の下露

一同は感嘆の声を挙げました。
父親はもちろん大喜び。その勢いで、翌日
御堂(みどう=藤原道長)に息子の天才ぶりを報告させます。
ところが…

道長は「子どもはかわいいものだよ」と言い、
「おもしろいと思うよ」と気のない返事。
伊尹それでは気がすまず、こんどは道長の娘
上東門院(じょうとうもんいん=藤原彰子)に使いを出しました。

上東門院のもとには紫式部(五十七)、赤染衛門(五十九)、
伊勢大輔(六十一)、和泉式部(五十六)など
当代随一の女房たちが仕えていました。
きびしい評価が下されてもおかしくありません。

しかしここには、伊尹の親ばかを受けとめてくれる人がいました。
伊勢(十九)の娘、中務(なかつかさ)です。
中務はていねいな返事をしたため、伊尹の息子を
人麻呂(三)か赤人(四)の再来じゃないかしらとまでほめたのです。

中務はさらに返事にこの歌を添えました。

荻の葉に風おとづるゝゆふべには 萩の下露おちぞましける

荻(おぎ)の葉に風が吹く夕べには
萩(はぎ)の下葉に宿る露はいっそう激しく落ちることでしょう


伝説のおまけ?

義孝の歌は藤原公任(きんとう 五十五)によって
『和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)』に採られ、
早くから義孝の代表作とみなされていたものです。

秋はなほ夕まぐれこそたゞならね 荻のうは風萩の下露
(和漢朗詠集 秋 義孝少将)

秋というのはやはり夕暮れどきがとびきりだろうね
荻の葉の上を吹きすぎる風の音
萩の下葉に結ぶ露のおもむき…

秋の風情は夕暮れどきがいちばんだというのは当時の常識。
荻のうわ風も萩の下露も歌語としてめずらしくないのですが、
それを漢詩などで用いる対句(ついく)のように
並列させたのが義孝のひらめきでしょう。

おもしろい歌ですが
家集『義孝集』を見ても詞書(ことばがき)がなく、
ほんとうに連歌の会で詠まれたものなのかわかりません。

また中務が贈ったとされる歌についても、
どの勅撰集にも家集『中務集』にも見あたりません。
はかなさの象徴とされる露を詠んでいるのも
賞賛の手紙にふさわしいとは思えないのですが…。

この逸話を載せるのは義孝の没後二百年以上後に成立した
説話集『撰集抄(せんじゅうしょう)』です。
夭折の貴公子(二十一歳で病没)として伝説化していた義孝の生涯に
だれかが新たな伝説をつけ加えたのかもしれません。