『小倉百人一首』
あらかるた
【201】相模は相模に住んでいた
相模つれづれの百首
平安中期を代表する女性歌人相模(さがみ 六十五)、
その女房名は夫の大江公資(おおえのきんすけ/きんより)が
相模守(さがみのかみ)だったことに由来します。
赴任する夫とともに相模に下って数年を過ごしていますが、
その間に箱根権現(=箱根神社)に百首歌を奉納したことが
家集『相模集』に記されています。
心ならずも東路(あずまじ)に下って三年も経ったので
由緒あるところを見ておこうと箱根に詣でたとあり、
信心ではなく観光気分で参詣したことがわかります。
時は治安(じあん)三年(1023年)正月。
相模は旅宿でのつれづれに思いつくまま百首をしたため、
「社のしたにうづませ」ました。
寺社へ和歌を奉納するのはめずらしくありません。
しかし相模の場合は、驚くべき展開が待っていました。
その年の四月十五日、権現からの返事だといって
百首の和歌が届けられたのです。
箱根権現との応答
「いかでか見つけゝむ」と相模は訝(いぶか)しんでいますが、
権現からの百首は相模が埋めた百首に対応する内容でした。
たとえば、
若草をこめてしめたる春の野に われより外のすみれつますな
(あなたは)春の野を独占し
若草をわがものとして(=わたしを妻として)いたはず
わたし以外のすみれをお摘みなさいますな
夫公資の浮気を知ったときの歌と考えられます。
これに対する権現の歌はこうでした。
なにか思ふなにをか嘆く 春の野に君より外にすみれつませじ
(あなたは)何を思い何を嘆くのか
春の野にあなた以外のすみれを摘ませたりしませんよ
神の力で浮気はさせないというのでしょう。
相模の歌には悩みや怒りを詠んだものが多かったため、
権現の歌はそれをなぐさめ、なだめる内容になっていました。
その後相模は都にもどることとなり、
権現の百首を届けてくれた僧のもとに
返事の返事となる百首を詠んで送りました。
これも権現の歌に対応する返歌であり、
燃えまさる焼野の野辺のつぼすみれ つむ人たえずありとこそきけ
さかんに燃える焼野の野辺に咲くつぼすみれのような女でも
摘む人は常にいるという話ですわ
権現はなだめたつもりだったのに、相模は堂々と反論しています。
権現の歌は説得力がなかったのでしょうか。
ところで、この合計三百首に及ぶやりとりのうち
権現からの返事という百首は、
ほんとうはだれが詠んだのでしょう。
歌を届けた僧の作なのか、
相模自身の歌、つまり自作自演なのか、
残念ながら、今にいたるまで真相はわかっていません。