『小倉百人一首』
あらかるた
【202】離婚したら大ブレイク?
未練をみせない相模
夫の浮気に悩んでいた相模(さがみ 六十五)は
都にもどってから正式に離婚したようです。(前話参照)
夫の大江公資(おおえのきんすけ/きんより)が
その後遠江守(とおとうみのかみ)となって赴任する際、
別の女性をともなって行ったからです。
相模は旅立つ公資にこのような歌を届けさせています。
逢坂の関に心はかよはねど 見しあづまぢは猶ぞ恋しき
(後拾遺和歌集 雑 相模)
逢坂(おうさか)の関を越えて行くあなたとはもう心は通わないけれど
あのとき見た東国の風景は今もなお恋しく思われます
よい思い出もあったということなのでしょう。
帰京するころの夫婦仲はすっかり冷えきっていたはずですが、
相模国からの帰途、
公資はこんな楽しげな歌を詠んでいました。
東ぢの思ひでにせむほとゝぎす おひそのもりのよはの一声
(後拾遺和歌集 夏 大江公資朝臣)
東国への旅の思い出にしようではないか ほととぎすよ
老蘇森(おいそのもり)で夜半に聴いたその一声を
近江国安土(あづち)の奥石(おいそ)神社の森は
ほととぎすの名所とされ、歌枕にもなっています。
妻の相模はほととぎすを楽しむ気分ではなかったと思われますが。
離婚後はモテモテだった相模
相模の歌人としての活躍は帰京後にはじまります。
一条天皇の皇女のもとに出仕してから数々の歌合に出詠して名を挙げ、
男性貴族六人組の「和歌六人党」からは
師と仰がれて指導にあたるほど。
贈答歌などから、和泉式部(五十六)や能因(六十九)、
源経信(つねのぶ 七十一)といった有名歌人との
交友があったこともうかがえます。
また藤原定頼(さだより 六十四)からは
離婚以前から求愛されており、ほかの貴族からも
たびたび求愛の歌を贈られたりしています。
恨みわびほさぬ袖だにあるものを 恋に朽ちなむ名こそをしけれ
(六十五 相模)
つれない人を恨む涙に袖が濡れて乾くひまもないのに
そのうえ恋のうわさでわたしの名が朽ちていくのが惜しいのです
百人一首に採られたこの歌は歌合で詠まれたものです。
年齢も五十代くらいと考えられ、
実際の恋愛を反映させたものではないとされています。
しかし、モテモテの宮廷歌人だった相模は
モテモテゆえの苦悩を知っていた、
その経験がこの恋の歌を書かせた、と考えるのは
無理のないところでしょう。