読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【203】来ぬ男・待つ女


待つ心さまざま

恋の和歌の主要テーマのひとつ「来ぬ人」。
百人一首では赤染衛門(あかぞめえもん 五十九)が、
待っていたら月が傾いてしまったじゃないのと詠み、
素性法師(そせいほうし 二十一)は
朝になってしまったと嘆いています。

どちらも予告なり約束なりがあって待っていたのですが、
藤原定家(ふじわらのていか 九十七)の歌は
待てど暮らせど来ぬ人を待つという内容です。
ひたすら待ちつづけながらも、さほど恨んでいないようす。

来ぬ人をどんな思いで待っているのか、
歌ごとに微妙な違いがあるのがおもしろいところです。

紀貫之(きのつらゆき 三十五)のこの一首では
女は気丈に振舞っているようですが…

来ぬ人を下にまちつゝ 久方の月をあはれといはぬ夜ぞなき
(拾遺和歌集 雑賀 紀貫之)

来ない人を内心では待ちながら
月を素敵だとほめない夜はありません

「下」は「下心」の略で本心のこと。
のんびりしているように見えて、じつは待ち焦がれているのです。

貫之にはこのような歌も

来ぬ人を月になさばや むば玉の夜ごとにわれは影をだに見む
(新勅撰和歌集 恋 紀貫之)

来ないあの人を月にしてしまいたいわ
(そうすれば)毎晩姿だけは見られるから

そうでもしなければ顔を見ることさえできないというわけで、
いじらしいと言えばいじらしいのですが、
作者は男です。


来ぬ人のつごう

歌合(うたあわせ)に参加すると、恋歌の題として
「来ぬ人」や「待つ恋」などが出されるため、
歌人たちはそれらを歌に詠むことになります。
性別も、経験があるかどうかも関係ありません。

王朝の恋愛では「来ぬ人」はまず百パーセントが男なので、
「来ぬ人」本人が待つ女の立場で詠むこともあるのです。

たとえば藤原忠通(ただみち 七十六)は
「雖契不来恋(ちぎるといえどもきたらざるこい」という題を与えられ、
このように詠んでいます。

来ぬ人をうらみもはてじ 契りおきしその言の葉もなさけならずや
(詞花和歌集 恋 関白前太政大臣)

来ない人をうらみつづけるのはよしましょう
会う約束をしたその言葉も あの人の情けだったのでしょうから

約束したくらいだから、恋が冷めたわけではないだろうと、
女は望みをつないでいます。

しかし見方を変えれば、
約束を守らなくても男を信じて待っている女というのは
「来ぬ人」につごうのよい女です。

最後に女性歌人を代表して
赤染衛門に登場ねがいましょう。

たのめつゝ来ぬ夜はふとも ひさかたの月をば人のまつといへかし
(新勅撰和歌集 恋 赤染衛門)

信じているのに来ない夜を幾度かさねても
(相手がもし)月ならば(それでも)人は待つというでしょうね

貫之の歌を意識しているのはあきらかで、
月ならともかく、来ない男なんてもう待たないというのです。
つごうのよい女になんかなるものですかと、
正面から異を唱えた小気味のよい一首ですね。