『小倉百人一首』
あらかるた
【204】百人一首と藤原氏
三人にひとりが藤原氏
百人一首には
選定した藤原定家(ふじわらのていか 九十七)を含め、
藤原姓の歌人が目立ちます。
歌人名に「藤原」と明記されているのは七人のみですが、
実際は三十三人が藤原姓なのです。
三条右大臣(二十五)は本名を藤原定方(さだかた)といい、
いとこにあたる中納言兼輔(かねすけ 二十七)は藤原兼輔。
兼輔の曽孫(ひまご)紫式部も藤原氏であり、
最初は藤式部(とうのしきぶ)と呼ばれていました。
女性歌人はほかに伊勢(十九)など四人が藤原です。
僧侶歌人では道因(どういん 八十二)の俗名が藤原敦頼(あつより)。
寂蓮(じゃくれん 八十七)の俗名は藤原定長(さだなが)です。
西行(八十六)は佐藤義清(のりきよ)という武士でしたが、
佐藤という名字は藤原氏がルーツなので、
西行を加えると三十四人が藤原ということになります。
藤原という姓(かばね)は中臣鎌足(なかとみのかまたり)が
天智天皇(一)から賜ったものでした。
自由に変えることはできないのですが、
平安時代、分家などで増えすぎた藤原姓を区別するために、
「藤」の字と職掌や地名を示す一字を組み合わせたといわれています。
そのころの佐藤や斎藤、伊藤といった名字は
屋号のようなものだったと考えてもよいでしょう。
ちなみに西行の佐藤氏は武人の階級を示す
佐(すけ=次官、補佐官)という文字を採ったものという説があります。
姓からわかること
百人一首歌人にはその名から一族の家業のわかる人がいます。
姓ごとに家業が世襲だったためです。
大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ 四十九)は
国家の祭祀を司る貴族、大中臣氏の子孫であり、
実際に伊勢神宮の祭主を務めていました。
菅原氏と大江氏は埴輪や古墳を作る土師(はじ)氏から別れたもので、
平安時代には学問を専門とする家柄になっていました。
菅家(かんけ=菅原道真 二十四)と
権中納言匡房(まさふさ=大江匡房 七十三)は
優れた学者として歴史に名を残しています。
それらと事情の異なるのが
「源(みなもと)」「平(たいら)」「橘(たちばな)」です。
これらの姓は賜姓(しせい)といって、
臣下の身分に下った皇族が天皇から与えられるもの。
河原左大臣(かわらのさだいじん 十四)は
源融(みなもとのとおる)といって嵯峨天皇の十二番目の皇子でした。
参議等(さんぎひとし=源等 三十九)は曽孫です。
また平兼盛(たいらのかねもり 四十)は光孝天皇(十五)の子孫であり、
ほかにも賜姓皇族とその子孫が何人か選ばれています。
鎌倉右大臣(九十三)源実朝(さねとも)も
ルーツをたどれば賜姓皇族です。
平安初期の融や等は国政を担う臣下として活躍していました。
その後藤原氏が政権を掌握するわけですが、
武家として力を蓄えた源氏、平氏が台頭して
貴族政治は終焉を迎えます。
みずからの祖先鎌足に藤原姓を与えた天智天皇を最初に置いた定家は、
百人一首に藤原氏の歴史を重ねていたのかもしれません。