『小倉百人一首』
あらかるた
【208】酒呑童子と小式部内侍
大江山と大枝山
大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)の正体は
シュタイン・ドッチという外国人だったという説があります。
身体が大きく、獣肉を食べ、赤いぶどう酒を呑んでいたため
恐れられ、やがて伝説化して酒呑童子となったのだと。
この説では丹後に漂着した外国人が誤解されたことになりますが、
盗賊の首領になった「捨て童子」が伝説化したという説もあり、
いまだに定説はないようです。
百人一首では小式部内侍(こしきぶのないし 六十)の歌に
大江山という地名が出てきます。
これは酒呑童子の大江山とおなじ山なのでしょうか。
また酒呑童子退治プロジェクトのリーダー
源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)と内侍は、
没年が四年しかちがわない同時代人でした。
内侍は頼光の武勇伝を知っていたのでしょうか。
じつは都の周辺の「おほえやま」はほかにもあり、
内侍が和歌に詠んだのは「大枝山」だったらしいのです。
丹波と丹後の境界にあるのが大江山、
都(山城)から丹波へ向かう途中にあるのが大枝山です。
歌にある順番では
都→おほえやま→いくの→天の橋立となっており、
地図を見ると生野(いくの)の手前にあるのは大枝山、
生野より先にあるのが大江山です。
おほえ山かたぶく月の影さえて 鳥羽田の面に落つるかりがね
(新古今和歌集 秋 前大僧正慈円)
大枝山に沈もうとする月の光が冴えて
鳥羽田(とばだ)の水面には空を行く雁の姿が映っているよ
都から見て月の沈む方角(=西)にあるのは大枝山です。
大江山は西北にあたるので、慈円(じえん 九十五)が詠んだのも
小式部内侍とおなじ大枝山だったことになります。
伝説誕生は南北朝時代か
平安時代から南北朝時代にかけての和歌を見ると、
文字では「大江山」となっていても
実際は「大枝山」だったと思われるものがほとんどです。
関があり、歌枕にもなっていたといいますから、
都人(みやこびと)にとってはこちらのほうが身近だったのでしょう。
大江山越えゆくすゑも 旅ごろもいく野の露になほしをるらむ
(新拾遺和歌集 羇旅 権大納言義詮)
大枝山を越えてさらに先の生野を行くころには
わたしの旅の衣は露でいっそう濡れてしまうだろう
この歌の作者は将軍足利義詮(あしかがよしあきら)。
小式部内侍より三百五十年ほど後の人物ですが、
酒呑童子伝説が成立したと考えられているのがちょうどこの時代。
内侍は自分と同時代の源頼光が
酒呑童子退治の英雄として語られるようになるとは、
夢にも思わなかったことでしょう。
※大枝山を酒呑童子の拠点とする説もあります。
明治以降に絵本、児童文学などの影響で大江山(千丈ヶ嶽)に
一本化されたもののようです。