読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【213】皇女さららの生涯


政変のさなかに生まれて

持統天皇(二)が生まれたのは大化元年(645年)のこと。
父親の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=後の天智天皇 一)が
中臣鎌足(なかとみのかまたり)らと謀って
蘇我入鹿(そがのいるか)を倒した、教科書にも載っているあの年です。

政変のさなかに生まれた皇女の名は●野讃良(うののさらら)でした。
サララちゃんなんて名前、今どきの女の子にもありそうです。
※●は「盧」偏に「鳥」

さて、皇女さららは十三歳で叔父の大海人皇子の妃となります。
百済(くだら)救援軍に参加した夫に随行し、
遠征の途次に筑紫(=九州)で草壁(くさかべ)皇子を出産しますが、
このときまだ十七歳という若さでした。

延べ三万の兵を送りながら
白村江(はくそんこう/はくすきのえ)の戦いに敗れ、
朝廷の権威はゆらぎはじめます。
そしてさらに国内には不穏な空気が…。

大海人皇子は兄の天智天皇を継いで天皇になるはずでした。
しかし天智の最初の皇子である大友皇子(さららの異母弟)が
傑出した人物だったことから、大海人に焦りと疑念が生じます。

実際に天智は671年に二十四歳の大友皇子を太政大臣に任命し、
大海人抜きで新しい政権を樹立させてしまいます。

大友皇子がそれほどの実力を身につけた背景には
白村江の敗戦で日本に逃れてきた百済の要人が
大きく関与していたと考えられています。
かれらが師となり、大友はその能力に磨きをかけたというのです。

それはともかく、
天智天皇がその年のうちに没すると
二日後に大友皇子が皇位を継承した(異説あり)と伝えられます。
大海人が吉野を拠点に兵を挙げたのは翌年六月。
壬申(じんしん)の乱の勃発です。


息子に代わって皇位に

さららにとっては夫が弟に弓を引いたことになりますが、
戦いに勝利したのは大海人でした。
夫が即位(天武天皇)すると、さららは皇后として政治に参画します。
この時期、皇族のみによる政治が行われたのです。

しかし688年に天武が亡くなると、皇族間の不和が露わになります。
草壁の異母弟大津皇子の謀反事件です。

大津はまもなく処刑されましたが、
皇位継承が確実となった草壁はあっけなく病死。
息子を天皇にという皇后さららの夢は潰(つい)えてしまいました。

さららが天皇として即位したのはその翌年でした。
恩赦が大規模に行われ、畿内の長寿者には稲束が下賜され、
官人は一階級の昇進という恩恵にあずかったといいます。
新天皇の決意の表れだったのかもしれません。

天皇はさまざまな改革を行いましたが、
持統朝で特筆されるのは藤原京遷都(694年)でしょう。
中国に倣った整然とした都城建設はこのとき初めて行われたのです。

落ち着いていて心の広い天皇だった(日本書紀)といわれるさらら。
近年の発掘で天武、持統の時代の遺構が次々と発見されていますから、
天皇としてのさららの功績に
新たな一頁が加わる日が来るかも知れません。

※さららの詠んだ歌は次回で紹介します。