『小倉百人一首』
あらかるた
【215】再会を願う歌
落語になった崇徳院
古典落語の『崇徳院(すとくいん)』は
百人一首にある崇徳院の和歌を活かした恋物語。
若い男女の切ない恋が描かれていますが、そこは落語、
次第に話は奇妙にねじれていきます。
和歌はオチの部分にも引かれていて、
髪結床(かみゆいどこ=理髪店)の鏡を割ってしまった男が
店主にとがめられて「割れても末に合わんとぞ思う」と
とぼけてみせます。
もちろん元の歌は鏡とは関係のない、
情熱的な恋の歌です。
瀬を早み岩にせかるゝ滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ
(七十七 崇徳院)
浅瀬は流れが速いから
川の水は岩にあたって二つに分かれ 再び一つになる
そのようにわたしは あなたとまた逢おうと思う
百人一首にはもう一つ、
元良(もとよし)親王の「逢はむとぞ思ふ」があります。
侘びぬれば今はた同じ難波なる みをつくしても逢はむとぞ思ふ
(二十 元良親王)
(事が露見して)思い案じていますが もう身を滅ぼしたようなもの
澪標(みをつくし)のように身を尽くしてでもお逢いしたいと思います
不倫がばれて自暴自棄になった状態で詠んでいますから、
こちらは危険な香りが濃厚です。
再会する紐と紐
もう少しおだやかな歌はないかと探してみると、
紀貫之(三十五)にこんな一首がありました。
風吹けば峯にわかるゝ白雲の 行きめぐりてもあはむとぞ思ふ
(紀貫之集 第六)
風が吹くと白雲は山の頂に当たって分かれていくけれど
(わたしたちは)再びめぐり会いたいものですね
恋の歌に分類されていないので、
別れた相手が女か男かわかりません。
雲の立場で詠んでいるという解釈もできそうですが、
いずれにしてものどかな印象です。
ところで、
崇徳院は浅瀬を流れる水、
貫之は風に流される雲に託して再会の願いを詠んでおり、
これらは和歌として典型的な手法といえます。
意外なものを持ち出したのは貫之の従兄(いとこ)
紀友則(三十三)です。
下の帯の道はかたがたわかるとも ゆきめぐりてもあはむとぞ思ふ
(古今和歌集 離別 紀友則)
下着の紐(ひも)は別々の方向に別れても
からだを一周してまた出会いますね
(わたしたちもそんなふうに)めぐりめぐって
再会したいものです
下の句は貫之とまったく同じ。
それにしても、まさか下着の紐が出てくるとは。
紐の両端は再会しないと結べないわけですから、
理屈としては納得できるのですが…。