『小倉百人一首』
あらかるた
			【168】月に寄せる思い
月の呼び名さまざま
百人一首には月を詠んだ歌が十首ほどあります。
	  それだけ月がおなじみの歌題だということですが、
	  月を愛した歌人たちが採り上げたのは
    満月ばかりではありませんでした。
たとえば順徳院(百)は三日月をこのように詠んでいます。
爪木こる遠山人はかへるなり 里までおくれ秋の三日月
	  (玉葉和歌集 秋 順徳院御製)
薪(たきぎ)を伐り出す遠くの山の木こりが家に帰るころだ
	  里まで送ってやるがよい秋の三日月よ
「爪木(つまぎ)」は薪にする細い枝のこと。
	  順徳院はもちろん想像で詠んだのでしょうが、
	  仕事を終えて里の我が家に帰る木こりを見守るように、
	  西の空に三日月が出ているというのです。
新月から満月くらいまでのあいだは夕空に月が出ています。
	  これをかつては夕月夜(ゆうづくよ)と呼んでいました。
うらむなよ 影見えがたき夕月夜 おぼろけならぬ雲間まつ身ぞ
	  (金葉和歌集 恋 一宮紀伊)
恨まないでくださいな 姿も見えにくい夕月夜に
	  やむを得ない事情で雲が晴れるのを待っているわたしなのです
作者は祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい 七十二)。
	  男が「今夜行くからね」と言ってきたのに応えた歌で、
	  何かおぼろけならぬ(=並大抵でない)ことが起こっていたようです。
明るいはずの夕月夜が曇ってしまって
	  月が見えにくい(=あなたにお会いしにくい)のですと、
	  遠まわしに断っています。
ためらう月
月も満月を過ぎると、
	  夜が明けても空に残っているようになります。
    これが和歌でおなじみの有明(ありあけ)の月です。
そのうち満月の翌日の、少し欠けはじめた月を
	  十六夜(いざよい)の月と呼んでいます。
次は二条院讃岐(にじょういんのさぬき 九十二)の歌。
君まつとさゝでやすらふ真木の戸に いかでふけぬるいざよひの月
	  (続後撰和歌集 恋 二条院讃岐)
あなたを待って閉めずにおこうかとためらっていた真木の戸だもの
	  どうしてこのまま夜が更けてしまうことがありましょうか
	  十六夜の月は遅れて出てくるものなのだから
「いざよひ」は「ためらう」という意味の「いざよふ」から出た言葉。
	  満月より三十分ほど遅れる月の出を、月がためらっていると見たのですね。
	  「やすらふ」は「ほうっておく」のほか「ためらう」という意味もあります。
殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ 九十)も
	  待つ女の思いを月に寄せて詠んでいます。
まつ人はたれとねまちの月影を かたぶくまでに我ながむらむ
	  (新勅撰和歌集 恋 殷富門院大輔)
わたしの待つ人はだれと寝ているのか
	  (そんなことも知らず)寝待ちの月が西に傾くまで
	  わたしはなぜ眺めている(もの思いに沈んでいる)のだろう
十六夜の月のあと、
	  立って待つ立待(たちまち)月、
	  座って待つ居待(いまち)月、寝て待つ寝待(ねまち)月
	  というふうに、月の呼びかたが変わっていきます。
寝待月が出るのは夜九時くらいですから、
	  それが傾きはじめるのは午前四時あたりでしょう。
	  明け方になるまで、なぜわたしは待っているのだろうというのです。
	  「ながむ」にはもの思いに沈むという意味もあります。
いくつか例を見てきましたが、
	  歌人たちはそれぞれの月の持つ特徴や風情を活かして
	  巧みな歌作りをしているのがわかります。
