『小倉百人一首』
あらかるた
【169】露を愛でる歌
玉の露
古典の世界で「露」というと、
「露の命」や「露の世」「露のやどり」など、
はかなさをあらわすために使われることが多いようです。
しかし『後撰和歌集』から採られた文屋朝康(ふんやのあさやす)の歌は
露を玉に見たてて、露そのものの美しさをたたえています。
白露に風の吹きしく秋の野は つらぬきとめぬ玉ぞ散りける
(三十七 文屋朝康)
葉の上の白露に風の吹きつづける秋の野は
糸につながれていない玉が散っていくようだ
きらきら輝きながら散っていくのは朝露でしょうか。
「玉」はもちろん丸いもののことですが、
宝石や真珠も「玉」と呼びます。
百人一首歌人では遍昭(へんじょう 十二)も
葉の上にむすぶ露を玉に見たてています。
蓮葉(はちすば)の濁りにしまぬ心もて なにかは露を玉とあざむく
(古今和歌集 夏 僧正遍昭)
蓮の葉は(泥から生えても)にごりに染まない心をもちながら
どうして葉におく露を玉に見せて人をあざむくのだ
苦情を言っているふりをして、じつは遍昭、
蓮(はす)の清らかさと露の美しさをほめています。
玉をつなぐ糸
ところで、すぐ散ってしまう露の玉は
なにを使ってつなぎ止めればよいのでしょう。
朝康がこのように詠んでいます。
秋の野におく白露は玉なれや つらぬきかくるくもの糸すぢ
(古今和歌集 秋 文屋朝康)
秋の野に置く白露は玉なのだろうか
蜘蛛の糸が貫いて掛けている(のを見るとそう思う)よ
露の玉がたくさんついた蜘蛛の糸は
たしかにネックレスや数珠のように見えますね。
次の能因(のういん 六十九)の歌もやはり蜘蛛の糸です。
ささがにの糸にかゝれる白露は 荒れたる宿の玉すだれかな
(能因法師集)
蜘蛛の糸にかかった白露は
古びた家にかけられた玉簾のようだよ
「ささがに」は蜘蛛のこと。
玉簾の「玉」は美しいもの、優れたものを指しますが、
この場合の玉簾はほんとうに丸いものが連なっています。
露をはかなさの象徴ととらえるのは中国伝来の考え方。
平安期以降の和歌では無常を説く仏教の影響もあり、
多くの歌人が人の命や憂き世を露になぞらえています。
とはいえ露にいつも無常を感じていたわけではなく、
遍昭や能因といった僧侶歌人も上記のように
純粋にその美しさを詠っていました。
最後に西行(八十六)の作品を見てみましょう。
光をばくもらぬ月ぞみがきける 稲葉にかゝるあさひこの玉
(山家集 秋歌)
くもりのない月がその光を磨いたのだろう
稲の葉に載っている 朝日を浴びた玉(=露)を
「あさひこ(朝日子)」は朝日を親しみをこめて呼んだもの。
朝の日の光にきらめく露の玉を見て、
夜の間に月が磨いておいたのだろうというのです。
さすが月の歌人西行らしい、おもしろい発想ですね。