『小倉百人一首』
あらかるた
【171】女院に仕えたエリート女房
優秀な女性管理職
百人一首歌人のなかでも覚えにくい人物のひとり、
皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう 八十八)。
父親の名はわかっていますが本人は名前も生没年もわからず、
家集もなく、勅撰集への入集(にっしゅう)もわずか九首で、
どのような女性だったかを知る手がかりはほとんどありません。
皇嘉門院というのは崇徳天皇(七十七)の皇后
藤原聖子(せいし)の院号(いんごう)です。
院号は皇后や皇太后、内親王などに贈られる名前で、
贈られた人は女院と呼ばれます。
女院には宮城(=皇居)の門の名をつける慣習があり、
聖子には大内裏の南面にある皇嘉門の名がつけられています。
ちなみに紫式部や和泉式部が仕えた藤原彰子(しょうし)は
上東門院(じょうとうもんいん)です。
別当というのは長官のことですから、
女院に仕える女房たち、女官たちをたばねる
最高責任者の役目をになっていたのでしょう。
有能なキャリアウーマンだったと思われます。
意外に純情な恋の歌
さて、別当の勅撰集入集歌は九首のうち七首が恋の歌です。
もっとも完成度の高いのが百人一首に入っている
「難波江の」だと思いますが、ほかの歌も見てみましょう。
忍び音のたもとは色に出でにけり 心にも似ぬわが涙かな
(千載和歌集 恋 皇嘉門院別当)
袂(たもと)で隠してこっそり泣いていたのに
その袂が紅涙に染まって人に知られてしまった
思いどおりにならないのがわたしの涙なのね
「忍び音」は人知れず泣くこと。
悲しみの涙は赤くなるといわれており、
袂の色が変わってしまって隠し通せなくなったというのです。
「心にも似ぬ涙」という表現がユニークですが、
百人一首にある平兼盛(かねもり)の「忍ぶれど(四十)」を
意識しているのは明らかでしょう。
では涙のついでに
帰るさは面影をのみ身にそへて 涙にくらすありあけの月
(玉葉和歌集 恋 皇嘉門院別当)
別れて帰るときには 昨夜のあなたの姿だけを道づれに
涙でくもる明け残りの月を見るのです
うれしきもつらきもおなじ涙にて 逢ふ夜も袖はなほぞかわかぬ
(新勅撰和歌集 恋 皇嘉門院別当)
うれしくてもつらくてもおなじように涙を流してしまうから
お会いする夜もやはり袖は乾かない(=泣いてしまう)のですわ
かわいらしいくらい素直に詠んでいて、
「難波江の」の技巧的な歌人とは別人のよう。
やはり定家の選んだ「難波江の」は例外的な作品だったのでしょうか。
※「難波江の」についてはバックナンバー【59】をご覧ください。