読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【174】紅葉のない秋


草庵の秋

『新古今和歌集』から採られた寂蓮(じゃくれん)のこの歌、
どんな情景を詠んでいるのでしょう。

村雨の露もまだひぬまきの葉に 霧たちのぼる秋の夕暮
(八十七 寂蓮法師)

にわか雨が通り過ぎ そのしずくもまだ乾かない真木の葉に
霧が立ちのぼっている秋の夕暮れよ

「真木(まき)」は松や杉、桧(ひのき)などの常緑樹の総称です。
寂蓮の歌は緑の葉に雨のしずくが宿っている情景であり、
秋の歌とはいっても、華やかな紅葉は詠われていないのです。

慈円(九十五)にはこういう歌があります。

山深みたれまたかゝるすまひして 槙の葉分くる月を見るらむ
(千載和歌集 雑 法印慈円)

山奥のこんなところに いったいだれがこのような暮らしをして
槙(まき)の葉を分けてくる月を見るというのだろう

いったいだれが…と慈円は言っていますが、
「自分以外のだれが」ということ。
常緑樹の山には紅葉の季節になっても人は訪れず、
森閑とした時が流れるだけなのでしょう。

ちなみに「槙」は現在ではイヌマキのことですが、
古典では「真木」と同じ意味で使われます。


真木は建築用木材?

「真木」には立派な木、良質な木という意味もあったそうですが、
しだいに建材に適した常緑樹を指すようになり、
平安時代には杉か桧にほぼ限定されていたといわれます。

藤原良経(よしつね 九十一)に
真木の板屋根を詠んだ歌があります。

さゆる夜の真木の板屋のひとりねに 心くだけと霰ふるなり
(千載和歌集 冬 左近中将良経)

凍てつく夜に真木の板屋根の家でひとり寝していると
心を乱せとばかりに霰(あられ)が降ってきたことよ

寂蓮や慈円とはうってかわって、
霰がけたたましく板屋根をたたいています。
寒いし寂しいしうるさいし、とても眠ってなんかいられませんが、
瓦屋根がまだぜいたく品だった時代ですから、
旅先などではこんな目に遭うこともあったでしょう。

次も良経の歌。

月見ばといひしばかりの人は来で まきの戸たゝく庭のまつ風
(新古今和歌集 雑 摂政太政大臣)

月を見るならいっしょにと言っただけのあの人は来ないで
我が家の真木の戸をたたくのは庭に吹いてくる松風だったよ

こんどはすっぽかされていますね。
この歌の真木の戸は高級品で、粗末な戸をあらわすのが「柴の戸」です。
どちらも古典にはよく出てくる言葉ですが、
戸のちがいが住まいのちがいをあらわすため、
人物の暮らしぶりや場面の状況を推測することができます。