『小倉百人一首』
あらかるた
【175】西行が託したもの
西行秘蔵の歌集
生涯の多くを漂泊についやした西行(八十六)は、
大事なものは笈(おい)に入れて背負って歩いていたそうです。
笈は行脚の僧が使う木製の箱で、開き戸と脚がついており、
仏具や衣類などを収納します。
さて、みずからの高齢を意識するようになったある日、
西行は藤原家隆(九十八)のもとを訪れ、
笈から二巻の歌合(うたあわせ)を取り出して後事を託しました。
孫と呼んでもよいほど若かった家隆に、
今の世にあなたほどの歌詠みはいない、
秘蔵の愚作を預かってほしいと言って。
家隆は三十歳くらいでしたが、
その歌才は定家(九十七)と並び称され、
のちに藤原良経(よしつね 九十一)から
「現代の人麻呂」とたたえられるほどの大歌人に成長していきます。
和歌の家柄出身ではないにもかかわらず
『新古今和歌集』の編集に加わったことはよく知られています。
西行は家隆の才能を見抜いていたのでしょう。
藤原氏の流れ
西行が家隆に託したのは
『御裳濯河(みもすそがわ)歌合』と『宮河歌合』でした。
これらは自作の和歌による自歌合(じかあわせ)で、
慈鎮(じちん=慈円 九十五)に清書してもらったともいわれ、
前者は藤原俊成(八十三)に、後者はその息子
定家に判詞(はんし)を依頼したというぜいたくなもの。
歌合は通常何人かの歌人が左右の陣に別れ、
一首ずつ出し合って勝敗を決めるもの。
それを自分ひとりの歌で行うのが自歌合です。
判詞は優劣の判定とその理由を述べた文を指します。
これらの歌合は伊勢神宮に奉納するためのものでした。
判詞を頼まれた俊成は何度も辞退したそうですが、
西行ほどの歌人の作品に優劣をつけるなど恐れ多いと思ったのでしょう。
俊成がなかなか受け取らないので、
西行は『御裳濯河歌合』の表紙にこんな歌を書きました。
藤浪をみもすそ川にせき入れて もゝえの松にかけよとぞ思ふ
(風雅和歌集 神祇 西行法師)
「藤浪」は藤原氏の系統を意味する言葉です。
俊成はもちろん、西行もそのルーツは藤原氏。
その流れを伊勢神宮を流れる御裳濯川に合流させ、
神にささげようというのです。
「ももえ」は「百枝」で、多くの枝が茂った立派な松ということ。
こちらは伊勢の内宮にあった松の巨木を指していると思われます。
俊成はこの歌に説得され、判詞を引き受けました。
そしてすべての判詞を書き終えた最後に、
このように書き添えています。
藤波も御裳濯川の末なれば しづ枝もかけよ松の百枝に
(風雅和歌集 神祇 皇太后宮大夫俊成)
藤原氏も伊勢の大中臣(おおなかとみ)氏の末裔ですから
百枝の松の下枝(しづえ)にすぎないわたしですが
(あなたの歌に判詞を添えて)神に奉りましょう
家隆に託された二巻はその後大切に伝えられ、
現代のわたしたちも判詞とともに読むことができます。