『小倉百人一首』
あらかるた
【176】平安アイドル萌え
舞姫は平安時代のアイドル?
勤労感謝の日という国民の祝日が誕生したのは1948年、
それまでは11月23日といえば
新嘗祭(にいなめさい/しんじょうさい)の日として知られていました。
新嘗祭はその年の新穀を神にささげて収穫を感謝する祭です。
宮中では天皇がみずから祭儀を行い、神と共食するならわしでした。
23日に固定されたのは明治になってから。
それ以前は霜月(旧暦11月)の第二の卯(う)の日と決められていました。
翌日の辰(たつ)の日に行われたのが
豊明節会(とよのあかりのせちえ)です。
神との共食を済ませた天皇が紫宸殿(ししんでん)に出て
新穀の御膳を食し、臣下にも賜うというもので、
庭では五節舞(ごせちのまい)などがはなやかに演じられました。
天つ風雲のかよひ路吹きとぢよ 乙女の姿しばしとゞめむ
(十二 僧正遍昭)
空を吹く風よ 雲の通り道を吹き閉ざしておくれ
天女の姿をしばらくとどめておきたいから
遍昭(へんじょう)の詠う「乙女」は五節舞の舞姫たち。
毎年公卿や国司の娘から四人が選ばれ、歌に合わせて
袖を五度ひるがえして舞ったのだそうです。
その注目度はさながら古代のアイドルグループ。
遍昭が夢中になったように
舞姫に恋してしまった人はほかにもいました。
たとえば藤原公任(きんとう 五十五)。
あまつ空豊のあかりに見し人の なほ面影のしひて恋しき
(新古今和歌集 恋 前大納言公任)
宮中の豊明節会で見かけた人の
面影が今でも恋しくてなりません
公任はこの歌を舞姫の父親に届けさせたそうですが、
その後どうなったのかはわかりません。
舞姫のひそかな願い
「天つ空」はふつう空のことですが、公任の歌では宮中を指しています。
おなじ「天つ」でも「天つ袖」は天女の羽衣の袖をいい、
次の藤原家隆(いえたか 九十八)の歌のように
五節の舞姫の衣の袖を指すこともあります。
天つ袖ふるしら雪に 乙女子が雲のかよひぢ花ぞ散りかふ
(新後撰和歌集 冬 従二位家隆)
舞姫の振る衣の袖に白雪が降り
乙女たちの帰る雲の通り道に花が乱れ散るようだ
現在の暦では12月中旬から下旬にかけて行われたことになり、
舞のさなかに雪が舞うこともあったでしょう。
「振る」と「降る」は掛詞です。
ところで、舞姫に選ばれた娘たちも
ひそかな期待に胸をふくらませていました。
それは、玉の輿。
くやしくぞ天つ乙女となりにける 雲路たづぬる人もなき世に
(後撰和歌集 雑 藤原滋包女)
天女(=舞姫)なんかになったのがくやしいわ
わたしの素性を尋ねる人もないというのに
「雲路たづぬる」はどこの娘かと尋ねるという意味でしょう。
寒さに耐えて舞ったのに、滋包女(しげかねがむすめ)は
期待はずれだったようです。しかし、
舞姫姿を見初められれば上級貴族の、あるいは皇子などの
妻として迎えられるチャンスがあったのです。
陽成院(ようぜいいん 十三)の母、藤原高子(たかいこ)は
舞姫をつとめて五位の位階を授けられ、
その後清和天皇に迎えられて陽成天皇を産んでいます。
皇太后という、女性として最高の地位にまで登りつめたのです。
こんな前例があったら、娘本人も親も熱が入りますね。