『小倉百人一首』
あらかるた
【178】つかの間の平安
ふるさとはなじみの土地
藤原雅経(まさつね 九十四)の歌「み吉野の」は、
坂上是則(さかのうえのこれのり 三十一)の本歌(ほんか)取りです。
(本歌取りについてはバックナンバー【7】をご覧ください。)
是則のオリジナルは
み吉野の山の白雪つもるらし ふるさとさむくなりまさるなり
(古今和歌集 冬 坂上是則)
吉野の山に白雪が積もったようだ
古都の寒さが増してきたのでそれと知れるよ
詞書(ことばがき)によれば、
奈良に滞在していた作者が宿泊先で詠んだもの。
「ふるさと」は生まれ故郷という意味のほかに、
かつて都があったところ、なじみ深い土地という意味もあります。
是則は大和の国の掾(じょう=国司の判官)でしたから、
親しみのある土地だったのでしょう。
百人一首に採られた歌も古都奈良を詠んだものでした。
朝ぼらけ 有明の月と見るまでに 吉野の里にふれる白雪
(三十一 坂上是則)
夜も明けようというころ 有明の月が出ているかと思うほど
(あたりを明るくして)吉野の里には白雪が降っている
『古今和歌集』を生んだ平和な時代
是則の祖先は坂上田村麻呂(たむらまろ)だったと伝えられます。
蝦夷(えみし)を平定して征夷大将軍となった人物です。
田村麻呂の父は藤原仲麻呂の乱で武勲をたてた
坂上苅田麻呂(かりたまろ)という武人。
苅田麻呂はまだ都が奈良にあった時代の人ですから、
是則にとって、奈良は先祖が活躍した土地という
特別な思い入れがあったとも考えられます。
ところで、先祖が武人として活躍したということは、
それだけ国内に動乱が多かったということになります。
しかし百年ほど経った是則の時代には、
醍醐天皇のもと、平穏な日々が訪れていました。
是則や藤原実方(さだかた 二十五)、藤原兼輔(かねすけ 二十七)、
紀友則(きのとものり 三十三)、紀貫之(つらゆき 三十五)たちは
つかの間の平和を享受できた幸運な歌人たちだったのです。
是則の遺した歌がどれものびのびしているのは、
そういう世相を反映しているからかもしれません。
花の色をうつしとゞめよかゞみ山 春よりのちの影や見ゆると
(拾遺和歌集 春 坂上是則)
桜の花の素晴らしさを映して留めておいてくれ 鏡山よ
(そうすれば)春の過ぎた後でもその姿が見られるだろうから
わたのそこかづきて知らむ 君がため思ふ心のふかさくらべに
(後撰和歌集 恋 坂上是則)
海の底に潜って調べてみよう
あなたを思う(わたしの)心とどちらが深いか比べるために
どれもおおらかな歌いぶりですが、
このあと平安京は平将門の乱や疫病、天変地異などで
ふたたび大きく揺れることになります。