『小倉百人一首』
あらかるた
【181】長寿の祝いは何歳から?
十年ごとの長寿の祝い
紫式部が(五十七)が仕えていたのは一条天皇の中宮彰子(しょうし)、
彰子の父親は藤原氏栄華の頂点を極めた権力者
藤原道長(ふじわらのみちなが)でした。
その道長が晩年に娘の彰子に贈った感謝の歌が
『千載和歌集』に収められています。
数へ知る人なかりせば 奥山の谷の松とや年をつまゝし
(千載和歌集 雑 法成寺入道前太政大臣)
わたしの年齢を数えて知っているあなたがいなかったら
奥山の谷に生えている松のように(人知れず)
歳をとっていたことでしょうね
彰子が道長の六十の賀(が)を催してくれたのです。
道長が六十歳になったのは万寿二年(1025年)のこと。
すでに出家して法成寺(ほうじょうじ)を建立していたため、
上記作者名にあるように法成寺入道と呼ばれていました。
六十歳の祝いというと今では還暦の祝い。
しかし当時は還暦や喜寿、米寿などの祝いはなく、
十年ごとに算賀(さんが)という長寿の祝いを行っていました。
最初の長寿の祝いは数え年四十で行う四十の賀(しじゅうのが)です。
現代の感覚からすればまだ若いのですが、
『源氏物語』には光源氏が孫たちにかこまれて
四十の賀を祝ってもらう場面が描かれています(若菜上)。
平均寿命が短かった平安時代、
四十歳はすでに老境の入口だったのです。
また算賀は春に行われることが多かったようです。
数え年は誕生日でなく新年を迎えるときに歳をとるわけですから、
正月からあまり時を経ない時期を選んだのでしょう。
祝いの和歌
紀貫之(きのつらゆき 三十五)は仁明(にんみょう)天皇の皇子
本康(もとやす)親王の七十の賀を祝して作られた屏風の絵に
こういう歌を詠んで贈っています。
春くればやどにまづさく梅の花 君が千歳のかざしとぞ見る
(古今和歌集 賀 紀貫之)
春が来ると家(の庭)に最初に咲く梅の花は
あなたの(千年におよぶ)長寿を祝う髪飾りに見えます
算賀では記念の屏風が作られることが多く、
その屏風に添える歌も詠まれました。
貫之は四季を描いた屏風のうち、梅の絵に添える歌を詠んだのです。
お祝いの歌なのでめでたい言葉を使って
さらなる長寿を願うのがお決まりのパターンなのですが、
在原業平(ありわらのなりひら 十七)はある大臣の四十の賀のために
ちょっと変わった歌を詠んでいます。
桜花ちりかひくもれ 老いらくの来むといふなる道まがふがに
(古今和歌集 賀 在原業平朝臣)
桜の花が散り乱れて隠してしまえ
老いがやってくるという道がわからなくなるように
「散る」だの「老いらく」だの
祝いの場にふさわしくないように思えますが、
長寿を願っているのは同じです。
むしろいつまでも若々しくあってくださいという意味が込められており、
意表をついた祝いの歌に大臣は苦笑したかもしれません。