『小倉百人一首』
あらかるた
【184】和歌で町おこし
ないものがある歌枕
松尾芭蕉は『おくのほそ道』の旅の前半で
陸奥(みちのく)の歌枕を歴訪しています。
百人一首関連ではしのぶもじ摺りの石、末の松山などがありますが、
多くの歌枕について「見た」というだけの
あっさりした記述で終わっています。
あこがれの歌枕のはずが、その実態は予想とは大きく異なっていた、
だから感想さえ書かなかった、ということかもしれません。
たとえば、
それより野田の玉川、沖の石を尋ぬ。
末の松山は寺を造りて末松山(まっしょうざん)といふ。
松の間々皆墓原にて…
(おくのほそ道)
野田の玉川は多賀城にあり、千鳥の名所とされた歌枕。
実際はごくふつうの小川だったとか。
沖の石は二条院讃岐(にじょういんのさぬき)の歌に出てくる石、
なのですが、
わが袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾く間もなし
(九十二 二条院讃岐)
潮が引いたときでさえ水面に見えない沖の石のように
人は知らないでしょうが わたしの袖は乾く間もないのです
この歌は寄石恋(石に寄する恋)の題で詠まれたものであり、
実在しない、想像上の沖の石が詠われています。
また讃岐は引き潮のときでさえ見えないと詠んでいますが、
現存する沖の石は陸上にあって、いつでも見ることができます。
芭蕉が見たのもおそらくこの石でしょう。
沖の石から歩いて一分か二分のところにあるのが
多くの和歌に詠まれてきた末の松山。こちらは
小さい丘に二本の松の古木が立っていて、
芭蕉が書いているように末松山宝国寺の境内になっています。
山号は末の松山に由来すると思われます。
これら三つのうち、少なくとも沖の石は
讃岐の歌をうけて後から作られた歌枕にまちがいありません。
今では芭蕉も観光に貢献
江戸時代、仙台藩は天下泰平の世情に合わせ、
名所の整備を進めて観光客の誘致を図っていました。
芭蕉が感動しきりだった中尊寺はその中心的な存在です。
ただ芭蕉の時代はまだ事業の途中だったため
看板さえ立っていないところがあったようで、
探すのが大変だったと芭蕉も書いています。
ここで芭蕉が訪れた歌枕と
対応する和歌をいくつか見てみましょう。
夕されば汐風越して みちのくの野田の玉川ちどり鳴くなり
(新古今和歌集 冬 能因法師)
夕暮れになると潮風が吹いてきて
陸奥の野田の玉川では千鳥が鳴くのだよ
陸奥はいづくはあれど しほがまの浦こぐ舟の綱手かなしも
(古今和歌集 東歌)
陸奥といっても(よい所が)いろいろあるけれど
塩竈の海を漕いで行く船を綱で引くようすはすばらしい
栗原の姉歯の松の人ならば 都のつとにいざといはましを
(伊勢物語 第十四段)
栗原の姉歯(あねは)の松がもし人であったなら
都の土産にさあいっしょに行こうと言うのだが
歌枕はそれぞれ野田の玉川、塩釜の浦、姉歯の松です。
現在これらの地には歌碑のほか芭蕉の句碑が建っているところもあり、
かつての旅人芭蕉が現代の旅人を迎えてくれます。