『小倉百人一首』
あらかるた
【185】末の松山 津波の記憶
津波も越さぬ末の松山
平安時代初期の貞観(じょうがん)年間(859-877年)、
日本は相次いで大きな災害に見舞われていました。
貞観三年に隕石の落下があり、六年に始まった富士山の大噴火は
足かけ三年にわたってつづきました。
十年には播磨国(兵庫県)で大地震があり、多くの建物が倒壊。
そして貞観十一年(869年)の夏、こんどは
陸奥国(むつのくに)東方沖を震源とする巨大地震が発生したのです。
これがいわゆる貞観地震で、押し寄せた津波で
多賀城(宮城県)一帯が海のようになったとの記録が遺されています。
地震につづいて大津波に襲われたわけですが、
この多賀城こそが、有名な歌枕「末の松山」の所在地なのです。
貞観地震による津波で末の松山は水没しなかった。
だからありえないことをあらわすのに
「末の松山を波が越す」というようになったのではないか…。
そんな仮説が真実味を帯びるようになったのは、
先ごろの東日本大震災で末の松山が沈まなかったからです。
多賀城には古くから朝廷の軍事拠点が置かれていました。
また震災後に調査や復興のための特使が都から派遣されていますから、
陸奥(みちのく)には津波でも沈まない松山があると、
都の人々は早いうちから知っていた可能性があります。
そしてこの東国歌謡。
君をおきてあだし心をわがもたば 末の松山浪もこえなむ
(古今和歌集 東歌)
あなたを差しおいて浮気心をわたしが持つようなことがあれば
末の松山を波が越えることでしょう
東歌(あずまうた)というのは
都より東の国々に口伝えで広まっていた歌謡のこと。
貞観地震から四十年ほど経た『古今和歌集』の時代、
東国の人々は津波の経験を詠み込んだこの恋の歌を
口ずさんでいたのでしょう。
和歌への直接の影響はこちらだったかもしれません。
津波の記憶を今に
清原元輔(もとすけ)は上記の東歌を本歌として
百人一首にあるこの歌を作りました。
契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山浪越さじとは
(四十二 清原元輔)
誓いましたよね 涙に濡れた袖を絞りながら
末の松山を波が越すことがないように
ふたりの思いも変わることはないと
末の松山の近くには東歌とともに元輔の歌碑も建てられています。
古代の歌枕としてだけでなく、
千百年以上昔の津波の記憶をとどめた史跡として見ると、
感慨はさらに深いものになるのではないでしょうか。