読み物

『小倉百人一首』
あらかるた

【188】歌僧寂蓮 リッチな生活


寂蓮と慈円

寂蓮(じゃくれん 八十七)は俗名を藤原定長(さだなが)といいました。
出家したのは三十歳くらいと考えられ、
山ごもりの修行や諸国行脚(あんぎゃ)をつづけたのち、
嵯峨に庵を結んで住み着きました。

悠々自適の暮らしだったのですが、
ある秋の台風で桧皮葺(ひわだぶき)の屋根が
吹き飛んでしまうという災難に見舞われます。

そのとき友人の慈円(じえん 九十五)に宛てた手紙には
こんな歌が添えられていました。

わが庵(いほ)は都の戌亥住みわびぬ 憂き世のさがと思ひなせども
(拾玉集 巻第五)

ひどい目に遭ったというのに冗談ばかり。
もちろんこれは喜撰(きせん)法師の歌をもじっています。

わが庵は都の辰巳しかぞ住む 世をうぢ山と人はいふなり
(八 喜撰法師)

わたしの草庵は都の東南にあって 鹿の棲むようなところ
こうしてちゃんと暮らしているのに
他人は世を憂いと思って宇治山に住むなどというようですな

喜撰の「辰巳(たつみ)」に対して「戌亥(いぬい)」、つまり北西、
「しかぞ住む」に対して「住み侘びぬ」、つまり住みにくい。
さらに庵のある嵯峨にかけて、
屋根が飛ばされたのも憂き世の性(さが=宿命)だとは思うが…、
などと言いつつ、あまりへこんでいるようすがありません。

これでは返事も軽いものでよさそうですが、
そこは慈円、高僧らしい返歌をしたためています。

道を得て世をうぢ山といひし人の 跡に跡そふ君とこそみれ
(拾玉集 巻第五)

得道(とくどう=悟りをひらくこと)して
「世をうぢ山」と詠んだ人(=喜撰)の足跡(そくせき)に
さらに新たな足跡を継いでいくのがあなたなのだと思います

喜撰は六歌仙のひとりですから、
その後継者といわれた寂蓮はどれほど喜んだことでしょう。


リッチな歌僧

寂蓮が屋根を飛ばされても平然としていたのは、
悟りをひらいていたからというより
リッチだったからだろうという見方もあります。

嵯峨に隠棲するとき、寂蓮は
後鳥羽院(ごとばのいん 九十九)から領地をもらっていたのです。
場所は播磨国(はりまのくに)の明石だったそうで、
草庵に住みながらじつは大地主だったというわけ。

たしかに寂蓮は長いあいだ後鳥羽院歌壇の重鎮でしたが、
それにしても破格の厚遇ですね。

寂蓮は嵯峨に住むようになってからも
たびたび後鳥羽院主催の歌合に参加しており、
百人一首に採られた「村雨の」もその際に詠まれた一首でした。

慈円のような社会的地位はなかった寂蓮、
名歌をつぎつぎと生み出すことで院の寵愛に応え、
さらに和歌の歴史にも名を残しました。
歌人としては、まさに冥利に尽きる生涯だったといえるでしょう。