『小倉百人一首』
あらかるた
【145】小倉山春秋
定家ゆかりの小倉山
小倉山は京都嵐山に近い紅葉の名所。
藤原定家(九十七)はその東の麓に時雨亭という山荘を持っていて、
今でもその跡とされる石組みが遺っています。
そこから歩いて十分ほどの距離にあるのが
息子為家(ためいえ)の義父、宇都宮頼綱(よりつな)の山荘跡。
この頼綱から障子(=襖)に貼る色紙の制作を依頼されて
執筆したのが『百人秀歌』であり、
それが百人一首のもととなったと考えられています。
小倉山が紅葉の名所として人々に親しまれるようになったのは
平安時代になってからのことでした。
百人一首の藤原忠平(=貞信公)の歌「峰のもみぢ葉」は
宇多上皇の御幸(みゆき)に際して詠まれたもので、
小倉山の見事な紅葉を息子の醍醐天皇にも見せてやりたいと願う
上皇の心を代弁した一首です。
皇族も紅葉狩りに訪れるほど、名所として定着していたのですね。
小倉山の四季
小倉山といえば紅葉…、そんなイメージが定着したせいか、
小倉山を詠んだ和歌はほとんどが秋の歌です。
実際の小倉山はもちろん四季それぞれに味わいがあり、
為家もこのように詠んでいます。
小倉山春とも知らぬ谷かげに 身をふるすとやうぐひすのなく
(続後拾遺和歌集 雑 前大納言為家)
小倉山の 春が来たこともわからないほどの谷陰に
我が身を古いものと思ってか うぐいすが鳴いているよ
「ふるす」は古いとみなすこと、飽きることをいい、
ここでは「古巣」との掛詞になっています。
春の日射しのとどかない谷の奥からうぐいすの声が聞こえたのです。
小倉山松にかくるゝ草のいほの 夕ぐれいそぐ夏ぞすゞしき
(拾遺愚草員外 四季題百首 定家)
小倉山の松の木陰の草庵は
夏でも夕暮れのせまる頃合いには涼しいものだ
これは定家の実感でしょうか。
京都の夏の暑さは昔も同じだったといいますから、
定家は山荘で快適な夏の夕暮れを過ごしていたのでしょう。
あかつきになりやしぬらむ小倉山 鹿のなく音(ね)に月かたぶきぬ
(玉葉和歌集 秋 藤原基俊)
明け方近くなったのだろうか
小倉山では鹿の鳴き声がして月も西に傾いている
暁(あかつき)は古くは夜半過ぎの真っ暗な時間帯をも含んでいました。
基俊(もととし 七十五)は東の空が白み始める前に、
鹿の声と傾いた月から時の移ろいを感じとったのです。
紅葉ほどではありませんが小倉山は鹿とともに詠われることがあり、
実際に鹿が棲んでいたと思われます。
小倉山ふもとの里に木の葉散れば 梢にはるゝ月を見るかな
(新古今和歌集 冬 西行法師)
小倉山のふもとの村では木の葉が散って
木々の梢(こずえ)に澄んだ月がよく見えることよ
最後は西行(八十六)の冬の歌。
葉が落ちて月がよく見えるようになったというのですが、
夜空に浮かび上がる木々のシルエットと
冷たく澄んだ冬の大気、冴える月の光を思い浮かべてみましょう。
ちょっと凄みのある美しい風景が広がりませんか。