『小倉百人一首』
あらかるた
【147】桃の不思議
平安貴族の三月三日
三月三日は桃の節句。
桃が中国から伝わったのは奈良時代初期といわれますが、
桃と三月三日が結びついたのは平安時代になってから。
花山(かざん)天皇にこのような歌があります。
みちよへてなりける物を などてかはもゝとしもはた名づけそめけむ
(後拾遺和歌集 春 花山院御製)
三千代(みちよ=三千年)経って実がなるものというのに
どういうわけで桃(もも=百)などと名づけるようになったのだろう
中国の伝説にある、三千年に一度実をつける
不老長寿の桃の話を踏まえています。
当時桃は薬としても珍重されており、
不思議な力をもっためでたい植物と考えられていました。
もともと三月三日は川などで身を清める
祓(はら)えを行う日だったので、
霊力のある神聖な桃を飾るようになったのでしょう。
定家の息子、藤原為家(ためいえ)は
三月三日の曲水宴(きょくすいのえん)を詠んでいます。
庭園に曲がりくねった水路を作って上流から盃を流し、
参加者はそれぞれ水路の曲がり角に座っていて、
盃が通り過ぎるまでに詩や歌を作るというもの。
からひともけふを待つらし桃の花 かけゆく水に流すさかづき
(新撰和歌六帖 歳時 藤原為家)
中国の人も今日を待ったのだろうね 桃の花よ
走っていく水に浮べる酒盃を見ながらそう思う
この遊びも中国から伝わったものでした。
貴族たちの集う庭園には桃の花が咲いていたのですね。
女の子の成長を願って
今でも流し雛の残る地方がありますが、
これがひな祭りの原形に近いもの。
人形(ひとがた)に穢れやわざわいを移して水に流すのです。
この人形が貴族の子女のおしゃれな雛(ひいな)と合体したのは
室町時代になってからと考えられています。
ひな人形という名前が生まれ、ひな遊びが普及したのは江戸時代。
女の子の初節句を祝って贈りものにするようになると
豪華な段飾りも一般的になっていきました。
現在よく見られる京都風の人形は
江戸時代後期に江戸の人形職人が考案したものだそうです。
内裏びな、三人官女、五人囃子に随身二人、衛士三人という
総勢十五人を「決まりもの十五人揃い」と呼んだとか。
このころにはどの家庭でも
家族揃ってお祝いをするようになっていたようです。
三日月にくれなゐにほふ桃の花 ひかりもいとゞまされとぞ思ふ
(夫木抄 春 大江匡房)
空には三日月 紅色に咲き誇る桃の花
この季節には光もいっそう明るくなると思われるよ
桃の節句が華やかなのは、女の子の成長を願う気持に
春の歓びが重ね合わされているからかもしれません。