『小倉百人一首』
あらかるた
【149】慈円と西行
名門生まれの高僧
慈円は百人一首に前大僧正(さきのだいそうじょう)と記されています。
大僧正は僧官(僧に与えられる官職)の最高位をあらわし、
平たくいえばいちばんえらいお坊さん。
「前」の字がついているのは途中で辞任したからです。
大僧正になる前は三十八歳以降天台座主(てんだいざす)という
比叡山延暦寺のトップの職を四度も努めていましたから、
僧侶として超エリートコースを歩んだことになります。
百人一首に採られたのはそんなエリート僧にふさわしい
使命感に満ちた一首でした。
おほけなくうき世の民におほふかな わが立つ杣に墨染めの袖
(九十五 前大僧正慈円)
畏れ多いことながら 人を導く者として
憂き世の民の上に覆いかけることだ
比叡の山に住むわたしの墨染めの袖を
慈円は道長直系の関白藤原忠通(ただみち 七十六)の息子。
名門の生まれで、しかも秀才でしたから
仏門に入っても立身出世は約束されていたようなもの。
とはいえ仏教界の最高位にまで登りつめたのは
それだけの力量、それだけの人望があったからでしょう。
心ならずも大歌人?
慈円が出家したのは二歳で母を、十歳で父を亡くし、
幼くして世の無常を知ってしまったからといわれます。
比叡山に入ってからは兄の尽力もあって順調に昇進をつづけましたが、
修行に専念する慈円に出世欲が芽生えることはなかったようです。
いつかわれみ山の里の寂しきに あるじとなりて人に問はれむ
(新古今和歌集 雑 前大僧正慈円)
いつかわたしは山深い里の寂しいところに住み
草庵の主となって人に訪問される暮らしがしたいものだ
若い頃に詠んだと思われるこの歌からは
山里で隠棲生活を送り、たまに人に会うていどの
質素で静かな暮らしを望んでいたことがうかがえます。
「おほけなく」の歌は三十歳くらいの作と考えられていますが、
責任ある地位についたことで意識が変化したのでしょう。
エリート僧がどうして和歌の達人になったのか、
あまり信用できませんが、おもしろい話が伝わっています。
若き慈円が三十七歳年上の西行(八十六)に
仏道について教えを乞うたところ、
歌の道に通じていない者には教えても無駄だと一蹴され、
何年もかけて和歌の修練を積んでから
再び西行のもとを訪れたというのです。
こんな伝説が生まれたのは、おそらく後鳥羽院(九十九)が
慈円は西行の影響を受けていると指摘したからでしょう。
院の見解が正しいかどうかはさておき、
慈円が西行と並び称されるべき大歌人であるのは確か。
『新古今和歌集』は西行の九十四首に次ぐ九十二首を入集させており、
六千首に及ぶ家集『拾玉集(しゅうぎょくしゅう)』も秀歌ぞろい。
山里でひっそり暮らすのは、似合わない人物だったようです。