『小倉百人一首』
あらかるた
【151】みかの原はどこにある
今も残るみかの原
後嵯峨院の催した「宝治百首」という歌会(1248年)で、
藤原良経(よしつね=後京極摂政太政大臣 九十一)の息子
基家(もといえ)がこのような歌を詠んでいます。
みかの原ながるゝ川の いつみきとおぼえぬ瀬にも濡るゝ袖かな
(宝治百首 恋 正二位臣藤原朝臣基家)
みかの原に流れる川の泉よ
いつお会いしたとも覚えていない逢瀬(おうせ)を思い
涙で袖が濡れることだ
「いづみ(泉)」と「いつ見き」を掛詞にし、
川の「瀬」に時期や機会をあらわす「瀬」をかさねた恋の歌。
もちろんこれは百人一首の藤原兼輔(かねすけ)を本歌としています。
みかの原わきて流るゝ泉川 いつ見きとてか恋しかるらむ
(二十七 中納言兼輔)
みかの原に湧き出し草原を分けて流れるいづみ川よ
(その名のように)いつ見たからといってあの人が恋しいのだろう
「みかのはら」は「瓶原」「甕原」「三香原」などと表記され、
草原に埋められたみか(甕=かめ)から泉が湧き出していると
語り伝えられてきました。
京都府木津川市加茂町に今もその地名が残ります。
みかの原は都のあと
みかの原にはかつて恭仁京(くにきょう)と呼ばれる都がありました。
奈良時代に聖武天皇がつくらせた都の一つで
鹿背山(かせやま)の近く、木津川のほとりにあったといわれます。
天皇はこの都が未完成のうちに紫香楽宮(しがらきのみや)に遷り、
放置された恭仁京は急速に荒廃。
『万葉集』には廃墟と化した都を嘆く歌が載せられています。
しかし平安時代になるとそんな嘆きもはるかな昔。
『古今和歌集』にはこういう歌があります。
宮こいでゝけふみかの原いづみ川 川風さむし衣かせ山
(古今和歌集 羇旅 よみ人知らず)
都を出て今日はみかの原のいづみ川に来ている
鹿背山よ 川風が寒いから着物を貸してくれないか
鹿背山に衣を貸せと、掛詞でたわむれています。
詠み人は恭仁京の跡地だとわかっていたのでしょうか。
藤原定家(九十七)はさすがにわきまえていて
みかの原くにの都の山越えて 昔や遠きさをしかのこゑ
(夫木和歌抄 秋 藤原定家)
みかの原では恭仁(くに)の都の山を越えて
遠い昔をしのぶような小牡鹿の声が聞こえてくるよ
山は鹿背山ですから、
雄鹿の声を聞いて昔を偲ぶという発想が生まれたのでしょう。
またこの詠いぶりから、
廃墟が五百年近くを経て史跡に変貌していたこともうかがえます。